あかんたれブルース

継続はチカラかな

名脚本家が見抜けなかった深作欽二の大化け!

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 つづく、として、何ですが
 『仁義なき戦い』が映画化されるには様々なドラマ(ドタバタ)がありました。
 監督でまず難航。
 この映画は深作欽二の代表作であり、彼の存在抜きには語れない作品です。
 ところが、当時の深作欽二はまったくパットしない売れない客の呼べない監督でした。
 それを、強烈にプッシュしたのが俊藤浩滋プロデューサー。この人は怖い人です。
 やくざじゃないとのことですが、関西の五島組とかに出入りしていた人で、
 限りなくそちらの人。まあ、東映と任侠世界とのパイプ役ですね。
 一流の興行師でもありました。藤純子のパパね。

 それに大反対したのが他ならぬ笠原和夫
 あんな奴とはまっぴらだ、中島貞夫でいいじゃないか。と
 笠原は以前、深作と組んでとんでもない目にあっていたのです。
 笠原は自分の「ホン」(シナリオ)に自信を持っていました。
 ちょうどこの頃46歳ぐらいでしょうか。
 後輩の深作はそのホンを書き直しました。そして、煮詰まってしまって、途中放棄したのです。
 深作がプロらしからぬ(ぶっ倒れて)不始末を起こしていたのです。

 俺の本を書き直して、途中で放り出すとは何事だ。です。
 笠原にとって深作欽二という後輩は「ジョーカー」だったわけです。
 
 その苦い経験から金輪際!組みたくない相手だったのです。
 結果、「絶対にシナリオを書きかえない」という約束で笠原が折れるのですが。

 もし、この作品を中島貞夫が撮っていたら、こんな名作にはならなかったでしょう。
 中島の作品もすべて観ていますから、私は断言できます。
 中島貞夫がいい人だということは認めますが。

 ときとして、ジョーカーがもの凄いことをやらかすのが世の不思議。
 五木寛之のエッセーのなかで某有名デザイナーがジョーカーを排除して、
 自分の考える最高のチームこそが完璧と考える点を批判していました。
 それでは自分の壁を越えることは決してないではないか、と。

 そして、深作は男子三日会わざれば刮目してみよ。じゃありませんが、大変身していた。
 いや、笠原の「仁義なき戦い」というシナリオで魂を揺さぶられたというのが正解ですかね。

 想定外というか笠原の計画以上のことが起こってしまうのです。奇跡のシンドロームです。
 
 深作はそれ以前にテレビの「キーハンター」を数多く撮っていました。
 40歳以上の方なら御存知かもしれませんが、あのオープニングは「仁義」です。
 「報道」風というシチュエーションですか。それと手持ちカメラ。
 細かい点は後々語りますが、とにかく、ありとあらゆる試みをこの「仁義」に注入します。
 そして、京都撮影所に「深作組」は誕生するのです。(写真は笑う深作欽二!ママじゃん)