あかんたれブルース

継続はチカラかな

どんな状況に陥っても「火種」を絶やさぬ胆力

 土壇場の「バカ」力【浪人】の節

 人間は誰しもが平穏な人生を望むものです。
 けれども起伏の違いはあっても人生は山と谷のボトムを描くのも現実です。
 中には大きな挫折に打ちひしがれて、二度と立ち上がれない状況に追いやられる
 場合もあるでしょう。
 その時期にどう自分を再生させるかもひとつの知力と勇気が必要なではないでしょうか。
 明治五年の東京のお茶の水界隈で
 「ひゃっこい」氷水を売り歩いていた浅野総一郎もまさに浪人真っ最中でありました。

 前年に故郷富山を出奔にてきた総一郎は、なにをやってもダメな男でした。
 手を出す商売がことごとく失敗の連続、
 「金貸お熊」の異名をとる高利貸しから大金を借りての商売も上手くはいかず、
 利息の催促に根を上げて夜逃げしたのが次第です。(浪人より悪い)
 結局こんなその日暮らしに見切りをつけてしまうと、
 醤油屋の丁稚小僧として再出発することになるのですが、
 ここで総一郎は味噌を竹の皮で包むことを知り、
 故郷では竹の皮なんか捨てられていたことを思い出します。

 そして、いままでの自分の商売は仕入れに資金が掛かりすぎていたこと。
 その売り上げがそれを賄えなかったことが運転資金に窮したことにつながったことを思いおこす。
 扱う商品がタダ同然で仕入れられれば、利鞘は大きい。
 これが浅野セメント、いや浅野財閥の誕生する瞬間といっても過言ではないでしょう。

 総一郎はタダ同然の竹の皮を皮切りに、コークスからセメント業に発展していくのです。
 そのテーマは「無から有を生む」こと。現代風に言えばリサイクル事業でしょうか。
 そして、「人の嫌がる商売こそ儲かる」をモットーとして、
 一日四時間睡眠と労働時間二十時間を実行していきます。

 その姿勢が王子製紙(抄紙)の渋沢栄一に認められ総一郎の事業は拡大の一途をたどるのした。
 彼の生涯を単なる立志伝中の英雄と片づけてしまう前に、
 もう一度、故郷から逃げ出してきた浅野総一郎の「ひゃっこい」氷水売りの姿を
 思い浮かべてみてください。
 その後、彼は途方に暮れて丁稚として再就職していましたね。
 人間あきらめなければ失敗は成功の大いなる糧となると思いませんか。
 ゼロからの再出発だったからこそ、できたことなのかもしれません。
 この手の逸話は掃いて捨てるほどありますが、
 それをやり遂げた者達は皆、逃げ場とか捨てるものがなかったようです。

 成功者以前の状態を「クスブリ」という言葉で彼らを揶揄します。
 そう言うのは大抵が傍観者であって、無責任な発言以外の何物でもありません。
 「運」という言葉もなんの効力もないでしょう。
 クスブリの火種を消さないことが肝要であり、運も自分で引き込む気迫も大切なのです。
 火種という情熱さえあれば必ず燃えます。
 これも土壇場の「バカ」力のひとつの姿勢ではないかと思います。