あかんたれブルース

継続はチカラかな

真言宗もピンからキリまで

 学生の頃、良書と悪書について学校の授業かなにかで説かれた記憶があります。

 マンガばっかり読んでましたから私は馬耳東風。
 そして、こんな歳になっていい加減な中年なっております(汗)。

 それでも、ふと。
 今年の夏に二冊の本を同時に読んで、東に向かって馬は思う。
 今流行のスピリチュアル系の本で、
 著者は真言宗の僧侶。同じ大学を卒業して経歴も似ている。
 仮に、
(A) という本は私よりも7歳年長の坊さんで50代半ば
(B) という本は私より一回り上の60代半ば

タイトルも似てるし、内容も似てる、どちらも大手出版社発行。

でもね、(B)の内容に引っ掛かりを感じてしまいました。

本の中盤あたりで「許せ」と説いているのですが。。。
人間誰しも人から裏切られることが一番傷つくものであると。
(なるほど、そりゃそうだな)
それを恨んでも始まらない。許す心が大切です。
(御説御もっとも)
 (でもさ、そう簡単にいったら誰も苦労はしないよね)
 (まあ、それが最終的な結論だとは理解はできるけど)

 そう思いながら読み進めていたら、
 この(B)僧侶がちゃんとレクチャーしてくれいぇいました。

 それで裏切られたとしても相手を恨むのではなく、
 自分に見る目がなかった事を反省しなさい。

 だってさ!

 私はひっくり返ってしまいましたよ。

 なんだよ、真言宗では最初から相手をそういう風に吟味しろと指導してるのか?
 信じられる人間と信じられない人間。それが解れば苦労はしないけど。
 確かに、人物鑑定の眼力は必要だと思います。
 江戸期の寺子屋ではそういうことも教育のひとつでした。

 でもさ、坊主がスピリチュアル仏教と銘打って(実際に表紙に印字されている)
 「許せ」と説いておいて、
 裏切られたら「見る目が無かったのだと」反省しろじゃあねえ(汗)。
 変じゃないか?
 スピリチュアルでもなんでもないよ。そういうのを後向上といいます。
 歴史考察なのでも最も駄目な手法と相場は決まっているんだな。
 いや、別に私は言葉尻を捉えてケチつけようって言うのではありませんよ。

 あまりにも短絡的なその発想と表現が「伝える」という立場の人間として
 問題があるんじゃないかと。思う。

 確かに恨みや憎しみでは何も解決しません。
 でもさ、許せ許せと連呼するけど、いったい何のために許すのか?

 心の安念ですか?
 悟りのためか?

 なんかさ、論法がガサツで結論付けが性急過ぎるように思えてしょうがない。
 そんなんじゃ、ちっとも癒しにもなんないし、
 咀嚼できない読者は余計に閉塞感を募らせるのではないか?

 それに、許せる事と許されない事も中にはあるでしょう。
 そのプロセスや中身をすっ飛ばして「許せ」を免罪符にしても
 なんら解決にはならないじゃないか! 坊主、聞いているか。

 とは、別に、心の問題が大きなテーマになるなかで
 私たちは答えを導き出すのに性急すぎます。
 すぐ悟りを求めたがる。
 そんなものそう簡単に悟れたら誰も苦労はしません。
 これじゃあみんな「悟りの亡者」じゃないか。

 許すことを悟りや安念のライセンスに考えるのは危険だと思います。

 もう一冊の本(A)はその辺のプロセスを懇切丁寧に解説してくれて
 非常に感銘を受ける名著でした。
 同じ宗派の僧侶が書いた本でもこんなに差があります。
 言葉足らずだったといえばそれまでですが、
 結構な肩書きを有して、それなりの社会的な責任もある者が
 こういった荒っぽい論法を発信するのは不味い。

 この二冊の差は
 良書と悪書の違いがあるとしみじみと思いました。
 要は著者の力量の差ですかね。

 これも見る目がなかった自分を恥じます。ということですか?

 そんなあ(汗)。読まなきゃ内容は解らないじゃないか!

 因みに(A)を『いい加減に生きる』大下大圓(講談社
    (B)は『もっと楽に生きる』大西智城(家の光協会

 この二冊を良書と悪書の凡例にするは少し酷な気もしますが、
 仕方がない。出版には責任が伴いますから。
 一緒に読んでみるといいですよ。明確に違いが解るゴールドブレンド