あかんたれブルース

継続はチカラかな

踊るカチカチヤマ

 ちょっと話から外れますが、共同体(国とか民族)にとしての
 性格、性質、運勢についての話。

 そういうものに盛衰があることは多くの人が認めるところですよね。

 私たちの「美しい国・日本」も幕末から明治にかけて途方もない危機的状況に陥りました。

 欧米では産業革命によって、それまでの爆発的な生産性を生み出しました。
 その市場拡大とか原材料確保とかキリスト教布教などを大義名分に
 植民地主義が推進され、アジアをおおかた呑み込んで、

 そして、来ました極東の最果て波止場。「美しい国・日本」へ。

 もう大騒動です。

 薩摩とか長州では試験的に単独挑戦してみましたがとても歯が立たない。

 幕府なんて戦う以前から融和政策です。不平等条約締結。

 この幕府の姿勢に大いに不満を感じてたくさんの志士が立ち上がりました。

 尊皇・攘夷というスローガンです。これが明治維新という革命につながる。

 で、そのほとんどが粛正で淘汰されてしまいます。

 司馬さんの『花神』だったかなあ。

 革命はまず、思想家が生まれ、そして倒れ、
 次に戦略・戦術家が生まれるが彼らも革命の結果を確認することはできない。
 最後に、、、何だったかな、政治家だったけか、まあシステムをつくる人。
 この3段階のプロセスを踏むのだと。(O〜MAさんフォローして(汗))

 あたかも、革命という国家の動転には生け贄を必要としているようです。

 司馬さんの『竜馬がゆく』のラスト。
 竜馬が志半ばで凶刃に倒れたとき、彼は途方に暮れた読者をこう慰めた。

 「 天には意志がある。

   天が、この国の歴史の混乱を収拾さるためにこの若者を地上にくだし、

   その使命がおわったとき惜しげもなく天に召しかえした 」


 前回、なぜ日本が植民地化されなかったかとしましたが、

 日本が地理的に極東の果てにあり、西洋列強の植民地主義の最終段階にあり、
 各国の牽制姿勢があったかもしれません。
 日本が島国で単一民族だったこともあるでしょう。

 また、当時の日本は識字率も世界一で、民衆レベレルの教養もたかかった。
 フランスよりも上だ。
 その事を知った欧米人は、シナと同様に扱っていけないと危険だと察しました。

 でもね、一番の理由は、
 私たちの日本から竜馬のような人間がたくさん登場したことだと思うのです。

 これが他のアジア人との違いです。
 幸運とか偶然ではなく、これは必然である民族の特性だと。
 それをナショナリズムとか決めつけちゃあ、お仕舞いです。

 O〜MAの記事に司馬さんの日本人の資質を語る「合理主義的な思考法」が紹介されてました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/nkydr632/41412244.html ちょっと読んでみてね。

 幕末から明治にかけて、竜馬のような必要とされる人間が生まれ、そして死んだ。

 吉田松陰、西郷や大久保、勝海舟伊藤博文児玉源太郎などなど。数え切れません。

 日本をひとつの人間と考えるならば、内患を虫喰う悪玉コレステロールを駆逐する善玉菌のようなものが、
 その摂理として突然変異させて登場させる。

 おお! これぞ歴史のダイナミズム。と思いませんか? 私は思うね。

 私は、彼らを特別な人間だったとは思いません。

 彼らはたくさんいた。一人が倒れると、また次の者が現れ、それが倒れるとまた次が、とゾンビのように。

 それは何かと言えば、「場」です。

 才能云々よりも一番重要なのは、この「場」であり、
 その場えの扉は、ある種、危機感といってもいいでしょう。非常口とか非常階段

 だから、考えようによっては誰でも竜馬に成りえるわけです。

 
 中東紛争などのテレビの映像などを観て、心が軋むな。
 宗教問題や欧米の思惑もあるとして、民族紛争の根底には「利権」があります。
 確かに、今の日本もこの「利権」に縛られている。すそのに至れば個人主義と名をかえて。

 それでも、100年〜150年前の私たち先輩たちがやれたことです。
 「志」とか「場」があれば、やるよ。絶対。


 まあ、それを言ってもね、その「志」が見いだせないという。

 その「場」がわからない。探せないと。

 だったら、

 自分でよく考えて、探すんです。

 でなかっったら、まだ追いつめられていない。危機感がないわけだ。
 今のままで充分やっていける。さほど今に不満があるわけじゃない。

 考えるだけでなく、行動に移せるかどうかには大きな差があります。

 人間は尻に火が着かないと奔りません。

 そこには学歴も男女差も体型も年齢も関係ない。
 
 運命の女神(天)は着火マンを持ってみんなの尻に火を着けてまわる放火魔だ。

 その境遇を嘆き、疲弊していかないで、我慢することを修行だと思い違いをしないで、
 一気に坂を駆け上がろう! アッ、チーイって(汗)。
 その腰痛も関節痛もメタボも経済的事情も関係しない。
 階段と階段の間(節目)には必ず、踊り場があります。(この階段を非常階段とかけてるのね)

 そこで、踊ればよろしい。

 時流を泳ぐ海鳥たちが惨い摂理を囁きながら
 いつか千切れる絆や夢を対岸から高見の見物かもしれない。(バイ中島みゆき「二隻の舟」)
 嗤っているかもしれない。(同じく「ファイト」
 やめとけと、親切ごかしに足を引っ張るかもしれない。(なんだろねえ、私の体験?)

 でもね、人生一度っきり。有限だ。そして、
 人は幸せになるためにこの世に生まれてきました。

 踊る阿呆に見る阿呆、おなじアホなら踊らにゃ損損。と言います。

 幸せとは踊ること。

 この人生、いつでもサタデーナイトフィーバー! 確変(確立変動スリーセブン)だ。