あかんたれブルース

継続はチカラかな

愚直なコミュニケーション




生きるってことは素晴らしい! 今を精一杯に生きる。

これが答えであることを否定できるものではありません。

けれども、同時にしんどくて、つらくて、苦しいものでもある。

もっと具体的にいえば痛みをともなうものです。

わたしたちは傷つくことを恐れています。そこに痛みがあることを知っているから。

しかし、この痛みとはなにか?

人は泣きながら生まれて来て、泣きながら生きて往き、泣きながら死んでいく。

山田風太郎の『人間臨終図巻』には古今東西の著名人の最期が列記されていますが、
その臨終の風景は様々でも、だいたい共通して苦しみ痛々しい。
知り合いの看護士さんがいってました。
「馬太郎さん、そりゃポックリ死ねたら楽だけどね」って。

そう、死ぬこともまた大変だ。自分たちがイメージするものとはかけ離れている。

でね、この痛みってなにかって思うのです。
誰だって、痛いの嫌じゃないですか。
また、心の痛みっていうのもつらいものです。

とにかく、生きているってことは痛みとともにある。
そして痛みに意味があります。

心ない者、神経の通わないものには痛みはないかもしれない。
しかし、そういう在り方ではいけない。
痛みを知ることこそ、わたしたちが人間あるという証なのだ。

そして、知ることと耐えることとは違います。
それが受け入れることの解釈違いになっていると思うのです。

そして、わたしは知っている。
自分の痛みを横において、他人の痛みを気遣っている人がいる。
この人をとても眩しく感じています。
昨日も彼女の新たな厄災についつい長いコメントを入れてしまった。
わたしなんかがそんなこと書き込まなくて彼女は彼女なりに答えは持っている。
とても強くて優しい人です。
でもさ、どんなに強くても時々はイヤになるし、もういい加減にして!って
誰でも思うものです。その時々には思わず立ち尽くしてしまう。

苦しみや悲しみのせいじゃない。

途方に暮れるその場所は孤独だからだ。

だから、そういときはたくさんコメントを入れます。恥ずかしいとか思わない。
余計なお世話とかお節介なんて決して思いません。

そういった行動を笑う人もいれば冷やかす人もいます。
なかには拒絶される場合もあって凹みます。
決して知的ではないかもしれない。

でもさ、いいんじゃない。
損得で生きると道を誤ってしまいます。またいい人であろうとし過ぎると
道を誤ってしまうものです。

ブログに対する賛否は分かれますが、
コミュニケーションツールとしてのこの道具が
「孤独」というものを少しでも薄めてくれるものであれば、それでいいじゃないか。

わたしには彼の自殺についての問いかけ、またそれを理論的に止める手練れはありません。
彼の痛みは彼にしか分からない。
わたしにできるのは、長いコメントを書くことだけです。
それを読んでいるうちに、気分が変わってくれればいいなあと思うだけ。
まったく理知的でもなく効率的でも効果的でもないのですが、
これがわたしの精一杯のコミュニケーションなのだ。

死んだらいけない。

痛みとともに生きて往こう。

できれば、自分のことだけじゃなくて、大切な人の痛みも背負って生きていく心構えで。
そういう自分を確認できたら、まんざら自分も捨てたもんじゃないと思えるかも。
そういう自分を認められたら、なんとなく生きていてもいいかなあと思えてきます。
自分を好きになれるって大切なことだと思います。

だから死んじゃだめだよ。痛みから逃げちゃだめ。





陰陽四十八手(44−6)笠地蔵