杉山茂丸のネットワークのわらしべ
なぜ、杉山茂丸という
一介の書生風情が政府要人に面会して影響力を与えられたのか?
でしたね。
落合氏はこれを影に薩摩のワンワールドがあったから指摘する。
しかし、それは香港に渡って英国商人シーワンとの繋がりにあるという。
とすれば明治21年(25歳)以降となります。
わたしはこのシーワンの存在は大きいと認めるのですが・・・
杉山が歴史の表舞台に登場するのは明治18年(22歳)の
御存知、伊藤博文暗殺未遂事件。
この時の伊藤面会の紹介状は山岡鉄舟が書いた。
その山岡への紹介状は熊本の佐々友房だとされています。
また、
その後に黒田清隆(薩摩)を訪ねたときの紹介状は後藤象二郎(土佐)からのもの。
黒田からは井上毅(熊本)を紹介される。
この段階ではまだ頭山満(玄洋社)とは出会っていません。
頭山に出会ったんのを明治18年の暮れか19年の始めとして、
明治19年に安場保和を県令に引っ張りだす。
これによって北九州の海軍予備炭坑の売買で香港に行くようになるわけですが
それが明治21年で杉山25歳となります。
ここで、領事館の中川恒次郎領事と懇意になって経済を学ぶ。
そして、シーワン。
それから軍事探偵だった荒尾精。
(荒尾とは明治18年末に大阪で知り合うとい資料もある)
明治22年に京都で西郷従道。その後東京で川上操六に。
両人薩摩の重鎮実力者です。
誰の紹介なんだろう?早稲田大学教授・一又正雄氏(故人)は
川上と親友である同郷の山座円次郎と推察していますが、
わたしは川上の部下である荒尾精ではないかと思います。
共通するのは荒尾主催の日清戦争推進秘密結社。
みなメンバーです。杉山も陸奥宗光も。
杉山が政財界にネットワークを拡げたキーマンをまとめてみます。
1)後藤象二郎(明治16年・20歳)
土佐派、自由民権運動家、大阪毎日新聞設立メンバーたち
大江卓、大井憲太郎、中江兆民など
また、長州出身の実業家・藤田伝三郎など
2)佐々友房(明治17年21歳)
熊本人脈。ここから頭山満・玄洋社にも結ばれていく
3)荒尾精(明治22年として、25歳)
↓
川上操六→山県有朋に結ばれていく。
あとは芋ずる式のマルチ人脈といおうか「わらしべ講」のようなものです。
因みに吉田磯吉は幼友達。
星亨は偶然。(二階からタンを吐いて星の帽子に命中。揉めたのが切っ掛け)
杉山の行動原理「一人一党」のエネルギーは
度胸・胆力と志であります。
また、それだけで紹介状を書いたり、実際に会って話をしたり聞いたりする
明治人のダイナミズムにわたしは惹かれたわけです。
これは、昔の日本人が凄い。
というのではなく
藩というこじんまりしたシステムや制度が、明治維新によって
「日本」という大きな枠組みに拡大したことも大きな理由であり、
またそこには「危機感」という緊張と一生懸命があった。
わたしが、明治という時代や人間に魅力を感じるのは
このためです。
分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(13)近現代史のなぞなぞ(4)
杉山茂丸の存在の捉え方(1)