あかんたれブルース

継続はチカラかな

喪の作業と同情と感性

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ささやかにはじめたブログで友達ができて、
ふた月もしないまに彼女は姿を消してしまいました。
その帰りを待ちわびていた九月のお彼岸の頃に
風さんを知った。
泣いていました。
息子を亡くしたことを嘆いていた。
悔やんでいた。
喪の作業のなかにあったのです。
その子の名を呼び続けている。参った。同情してしまった。
同情。それはあまりよろしくはない、今はそんな風潮なのですが、
誰だって出会い頭にあの記事に出くわしたら同情するよ。
まだ、開設したばかりのブログで記事も二、三本ぐらいしかない。
祭日の午後に目を擦りながら何度も読み返して
コメントを入れました。

慰めの言葉を綴った。

同じような人が数人か同じように慰めの言葉を送った。
風さんの返信はない。
それでも、みんな慰め、励ましを続けた。

いてもたってもいられない、みんなそんな気持ちだったと思う。
はやくしないと風さんが壊れしまいそうだった。

そんな状況がしばらく続いて、風さんに変化が現れました。
すこしずつだけれども私達のコメントに
応えてくれるようになったのです。

よかった。でも、すこし不安になりました。
みんなのコメントは慰めと励ましだけれども、その言葉をいつまで
どこまで続けられるのだろう。言葉に、限りがある。
風さんはいつまでこの哀しみを続けるのだろうか。
それまで、私達は慰めの言葉を持ち得られるのだろうか、
励まし続けていられるのだろうか。

風さんのブログには亡き息子さんの残した花の写真がアップされている。
はじめは幼子を失った若い母親かと思った。
実際は
わたしの母とそうかわりない
亡くなったK男さんもわたしとそうかわらない年齢です。
急逝されらのは三年前。
それでも風さんの哀しみはまったく癒えない。

わたしは慰めや励ましのメッセージを一切やめることにしました。
その日から、K男さんの残した花の写真に対する感想にかえたのです。
わたしは言葉が枯れてしまうことを怖れました。

写真っていうものは不思議なもので同じカメラで同じものを撮っても
撮る人によってまったく違うのです。
それを感性といったりします。
毎回、コメントするためにK男さんの写真を真剣に向かい合うことが
わたしの日課となりました。
それは同時に生前のK男さんと同じファインダーをのぞくことでもあり、
彼がなにを感じ、なにを考え、なにを表現しようとしたかを
読みとる作業でもあったのです。

不思議な体験でした。
言葉が生まれくるのです。

これまで、仕事柄プロのカメラマンの作品はたくさんみてきている。
それにさほど感動することはありませんでした。
仕事ですからね。
ましてや花の写真なんて陳腐なものとしか考えていませんでした。
でも、K男さんの写真は違っていたのです。
それともわたしの変化だったのでしょうか。

彼は自分の死期を察していたのでしょうか?
その花の写真には生命の儚さ、無常。だからこその愛おしさ
つまりは生死観、人生観というものがこめられている。
それをなぞるようにして、風さんに伝えたのです。
まるで霊媒師のような
まるでタイムマシンか時空瞬間移転装置でも働いたような
不思議な体験だった。
言葉は自然に生まれました。それはわたしにとっても貴重な体験にもなった。
風さんもよろこんでくれました。

それが、二年ほど続いたですかね。
風さんは立ち直った。
いえ、ときおり潮の満ち引きのように哀しみがよせてくるときもある。
けれども、彼女は外に向きを変えられた。
再び光りをとらえられるようになりました。
わたしは役目をひとつおえたように、安堵した。