あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛というなの電車に乗って

マグロ女と芋侍(7)


キリスト教の説くところは愛だといいます。
仏教は救いであり、苦悩に満ちた私達人間すべてを
救うところに本願があり
これが大乗であり
阿弥陀仏の名号を信じて唱えることで
すべて救われると説くのが他力本願の教えだ。
これも愛です。

自力じゃだめなんだ、結局は他力しかない。
五木寛之もこう達観したようですね。

いろいろ考えあわせれば、愛も他力ということになる。

そのキリスト教は隣人愛だというけれど
わたしは自分の隣の部屋の人のことをほとんど知りません。
挨拶しても無視される。
別に恨んだり憎んだりはしませんが、
わたしはとうていそんな知らない人を愛せない。
もし愛せるなんていっちゃうと
なんか愛が暴落して薄っぺらになりそうで恐い。
そんな簡単に口に出せるものではない気がするのだ。

かといってキリスト教や仏教の愛を否定するわけじゃない。
それはそうだと思うし、2000年前の人たちが
よくここまで考えたものだとびっくりする。

ダーウィンは進化論を唱えましたが
人間は進化してるのだろうか?
むしろ後退化しているんじゃないかとさえ思う。

利己や現世利益、履き違えた個人主義民主主義・・・

誰だって上手くやりたい。
だとしたら、事業でも商売でも人間関係でも恋愛でも子育てでも
なんでも、利他で臨んで遂行すれば成功する。
これは宗教本ではなくビジネス書にある叡智だ。
問題はそれを信じてやれるかどうかです。

つまり、利他もイコール愛だよね。

念仏さえ唱えれば救うという大盤振る舞いの阿弥陀釈尊
そこはやっぱり信じて唱えてくれないと、あとは知らんよ。


仏教では恋愛も煩悩と解釈しているようですが
わたしはそうは思わない。
なぜならば、人が人を愛することを否定できるものか。

むしろ、恋愛こそが己を空しくする
もっとも自然な菩薩行ではないかと、思う。
恋愛から志に発展させてもけっこうです。
要は自分への執着からの開放こそが自由への往生であり
これは幸福というものだと思うのだ。


好きになったり恋したり愛したりすることは
絶好の菩薩の行の切っ掛けになる。
自分のことを第一に考えないですむものね。
相手のことを優先できる。
できるかどうかが鍵です。損得じゃなくって
できないようなものはバッタ物の偽ブランド。
それで満足できる人はいいさ

すべてを識として相対的にしかみれない人間。
ここに悲喜劇が生まれ苦悩に苛まれる。
そこから脱却するには「空」だと仏教では説いている。
しかしなかなかそれができないわけだ。
それも釈迦は認めているわけです。

できない人の問題であり
できない人が多いから問題なのだ。
そういうふうに世の中は、人間は、出来ている。
それが自然の摂理というものです。

それにどんなに逆らおうとしても結局は無駄な努力で
意味のないものです。
なにかというと現実論を口にする人もいるけれど
それ自体が非現実的であって
損得で考えるのであれば、そこに損得勘定を
あててみるのもいいと思う。
費用(時間と労力)に対しての効果がまったくない
非効率なものです。

人生というものが、未来永劫続く無限のものであれば
そういうことを試してみてもいいかもしれません。
失敗とか無駄とかはないわけですから。
ただし、遠回りしてもそれが糧になったといえるのは
その目的や目標を見出せてそれに気づいたときに
いえることであって
なによりも、私達が与えられた人生の時間は有限だ。


生まれた場所、環境は違うのに
同じ空を同じように、同じ色に感じられる人がいる。
同じ立ち位置で同じように歓び悲しむ同じ感性を有する
人がいるものです。
そういう人は同じ波長の電波を発信して自然に惹かれあう。
奇跡のような出逢いが必ず起きるものです。
あなたがあなたらしくあれば必ずそれは起きる。

人間は生まれて成長するなかで社会性を学び身につける。
それはある意味で己を隠すことでもある。
余所行きのコートを羽織っている。

恋愛とか性行為は、駆け引きやゲームやプレイじゃない。
そういう相手と向かい合って身を包む衣を脱ぎ捨てることだ。
相手にさらけ出すことです。
与えること、死ぬことだ。殺すこと、共に生きることだ。
同化してしまうこと。

それは勇気を必要とすることかもしれませんが
あなたはそれを欲している。そうしたい。そうせざるには負えない。
そうしたいのだ。

愛したいのだ。
それが己を空しくするということです。

わたしは近代化のプロセスのなかで
誤った価値観や倫理観、常識・一般論があって
とくにそのなかで性に愛に関するそれが
私達を不自由にしていると思う。
そういった弊害からマグロは生まれます。
それは男女関係ない。

そういう迷信をぶっ壊してやりたいと強く思う。
21世紀の科学的な世の中で
こんなアホな非合理非条理非効率な与太が
罷り通っていることが不思議で仕方ない。

そんな古ぼけた漬物石を抱いて心中するなんて
わたしはごめんだ。
遠の昔に一抜けて、勝手してます。

えっ? いまの心境、感想ですか?
そりゃあ、もう、
「嬉しい楽しい気持ちいい!」