あかんたれブルース

継続はチカラかな

「子は宝」というならば3

8時だよ全員アスペルガー!(6)


色々なシリーズを並行させていますが
臆病な石に続いて
先日の橋下市長の竹島発言の勇み足の記事を
思い出してください。

わたしはそれを性急すぎると指摘しました。

この言葉を、わたしはよく使う。
ある意味で、これは現代日本人の特徴なのだとも思う。
タメがないんだよな。

かといって、自分自身もその傾向はありますよ。
たとえば、性差の話でいうと
「女は聞いてほしいだけなのに
 男はすぐそれの解決策をまくりたてる」

若い頃に比べたらだいぶマシになりましたが
それでもときどきこれで失敗しちゃう。
ま、これは性差の話ですけどね。

世代間というかジェネレーションなのでしょうか
どうも反応が早すぎるというか敏感すぎる。

たとえばネットなんかでのイザコザというか論争でも
決して相手が攻撃してきたわけじゃないのに
過剰に反応する傾向を、よく目にする。
なんでそこで揉める? 即、敵対となるのか
その記事に、そのコメントに、即反応するのか。
ピリピリしてる。

これもある種のアスペルガーともいえる。
行間どころか、文章の内容が読めてない。
それとさ、本論を外して、各論で衝突してる場合も多い。
岡目八目で眺めてみれば
揉めてる相手同士が実は同じ意見だったりすることもある。
気づいてないのは当事者だけ、なんてね。

こういった傾向からアスペルガー
子供だけに限定できるものではないので
いくつか心当たりを列記してみます。
そのなかで、世代的な観点も敢て入れてみます。


発育障害などをテレビやゲームが原因だと指摘する人もいる。
テレビ普及に大宅壮一は「一億総白痴化」と警告を発した。

わたしが発達障害傾向を(仮説ですが)
1970年代以降に生まれた者達から急増としたのは、
わたし自身は1959年、昭和30年代生まれで
ど田舎の生まれ育ちでテレビの民放は
幼稚園から小学校四年まで一局しか映らなかった。
(その後二局になりましたが)
選択肢がないのだ。

だから、観たくもない
時事放談とか浪曲とか民謡とか観ていた。
これは子供世界じゃない。

大都市じゃない田舎はこんなものでした。

当然、テレビゲームなんかない。マックもない。
インベーダーゲームが流行ったのが18才の頃ですからね(汗)
マックを食ったのは18才。ケンタッキーを食ったのは21歳。
テレビゲームは22歳ぐらいです。

その意味で昭和30年代生まれはその影響も
少なかったのかもしれない。かと

わたしが対人関係で違和感を持ち始めたのは
次世代の新人類世代からです。
これをもって1970年以降と仮に目星をつけけたのです。
また、偏差値教育は昭和35年(1960)組から
というのも付け加えておきましょう。
新人類というか、校内暴力世代かなあ。
私達の頃はなかった。

ただし、わたしはテレビやゲームを即、
発達障害の原因にはできないと思っています。


また、少子化核家族化で幼友達や兄弟姉妹が少ない。
学校は同級生だけなので
年齢差のある上下の付き合いの経験がない。

そのぶん理不尽は少ないでしょうが、
そういう環境での社会教育を学ぶ場が少ないのだ。

ましてやそんなことしなくても
テレビやゲームがあるから平気です。
コミュニケーション能力の低下の一因はまずこういった
社会環境にあると思う。
人間は楽なほうに転びますからね。


で、70年代以降、日本は豊かになり
一億総中流意識が芽生えます。
平等で横並びです。
そこそこ小金もたまれば、守りに入る。
これが細木数子からターゲットにされる
「目減りの法則」に苛まれる人々を生み出した。

基本人間は臆病な石なのだ。

他人と接触することは、厄介を生む。
揉めたくない、事なかれ主義で通そうとします。
また個人主義なんてものから、また社会環境の変化で
他人と関わらなくても生きていける、という錯覚が生まれる。
そういう必要がないんだ。

大人も、子供も。

ちょっと前にKYって言葉が流行りましたよね。

その場の雰囲気や相手の顔色ばかりうかがっているのも
どうかとは思いますが、それ以前に
まったく察せられない。

これは基本的に自分のことしか頭にない。
他人に興味があまりないのです。

それもあって、
コミュニケーション能力を当初は、今でも、
主張することだと勘違いしてしまっている。
違うよ。
コミュニケーション能力とは
まず相手の気持ち意図を察すること、読解力読心力にある。

こういうのはセンスというか
持って生まれた資質もあるけれど、訓練です。

そんな訓練なんて普通やらないよ。
必要に迫られないと。

つまり、必要がなかったんだ。

よく、「一人で大きくなったなんて思うな!」なんて
どやされたものですが、みんなどこかで
一人で成長し生きていると考えている。これは驕りだね。
そういうことを教えてくれる
親とか、友人とか、先輩とか、教師とか、上司がいない。
身につくわけがないじゃないか。

身についた知性と感性からかもし出されるものは
不安や心配や懐疑だけ。

プロセスなんかどうでもいい。
はやく解決させて、その不安や心配を取り除きたい。

誰のために?

自分のためです。
相手の不安や心配を相談されても
はやくそれに決着をつけないと気が気じゃない。
これも自分のためです。
でなければ、はじめから無関心。

こういうのは感性教育の欠如から
考える癖というか習慣がないのでしょう。
悩んでいるようで、実はそれは悩みじゃない。
不安を数え上げているだけなのです。

そして、結論は一気にワープするように
段階をすっとなして、究極の答えに結ばれる。
これが現代人の性急な在り方なのではないかと思う。

アスペルガーはそういうなかの徒花みたいなものなのかなあ

いや、忘れないで
アスペルガーが遺伝であるならば、
わたしたちの世代、その前の世代・・・さかのぼって
いまのような様々な弊害があったはずだ。

わたしは一応、歴史研究家だけど
そんな話とんと聞いたことがない。

これは絶対に子供のせいじゃないぞお。
社会環境になにか問題があるんだ。
このままにしておくと、この国はおしまい。

「子は宝」というならば
しっかり頼みますよ安倍さん、石破さん。
そして橋下さん。

えっ? 誰か忘れてないかって?
あと、誰かいましたっけ?
なんか最近アルツハイマーで(汗)