あかんたれブルース

継続はチカラかな

「それとも」がない不自然

チェブラーシカと一緒に(7・5)


リサーチしてみたところ
どうもいまひとつピンときていみたいなので
再度、非情のライセンスの「昭和ブルース」
http://www.youtube.com/watch?v=vDJBQnvHgXk
この歌詞のはじめの
>♪ 生まれたときが悪いのか~
   それと俺が悪い~のか

これが、現代であれば
「生まれたときが悪いのだ!」であり
悪いのは
時代、環境、政治、親、みーんな他人のせい。
でなければ、
「ぜーんぶ俺(私)のせいです!」

「それとも」なんて接続詞がありません。
このどっちか。両極端にわかれる。

90年代、精神科医和田秀樹はこれを
メランコ人間とシゾフレ人間に分類しました。
前者が躁うつ病で後者が型分裂病型です。

分裂症っていまではいいません。統合失調症だ。
しかし名称が変われば変わるほど
病名が増えて細分化されればするほど
わけ分からなくなってしまう。

ま、とにかく精神疾患分裂病躁うつ病
最初は分けられていたわけです。
おおざっぱであっても、まあものの考え方として
この二つは相反するものです。

1973年から1980年の『非情のライセンス』を
取得する会田刑事(天知茂)はエンディングで
「のか?」とか歌っていたわけです。
彼が分裂タイプか躁うつタイプかはわからない。
年代的には完璧に前者なのですが、
(昭和30年代生まれの前後で大別されるそうです)
会田刑事はさらに「それとも」と、悩んでいる。
いいですか、悩んでいるんですよ。

80年代までは悩んでも許されてたわけだ。
どこで悩んでいたのか?
三畳一間も小さな下宿窓の下には神田川みたいな
風景のなかで物思いに耽っていたんだ。

それが80年代になって許されなくなった。
ユーミンが四畳半フォークなんて大嫌いと
戦陣をきった。
タモリが「ネクラ」と誹謗中傷し揶揄しネタにした。
そして、バブルがやってくる。
わっしょいわっしょいです。
ポジディブにアクティブにコンパにサークル、イベント
・・・疲れを知らない子供のように
そしてバブル崩壊
それから長ーい不況が続いているわけですよね。

で、悩まないことが善とされてきた。
それが、前記した他者のせいか自分のせいか
という二極化傾向が強まった、とわたしは考える。
ま、私見ですからね。

で、さ
ここで躁うつ病というものを考えてみる。
精神疾患分裂病と両横綱なのですが
うつ病はよく聞きますが、躁病とか躁うつ病とか
あんまり聞かない。
これが前々から不思議に感じていたことなのだ。
双極性障害という名を替えていた。からかもしれない。
これ最近よく耳にしますが
でもさ、最初は躁うつ病だったわけで
ある時期、うつ病だけが注目されてきたのは
確かですよね。

うつ病は落ち込みの低空飛行ですから
陰性で他人に危害を加えることはありませんが
これが躁状態になると一点陽に転じて
ハイテンションで行動的で攻撃的になってしまう。
家族や関係者が頭を抱えるのは躁病のほうです。

ひとつは医療機関側の対応・姿勢にあると思う。
精神疾患で診療を受ける患者(一人で受診の場合)は
うつ状態の症状が強いそうなので
そこで診断して「はい、うつ病」と診断されるそうです。
それで抗うつ剤とか処方されるわけですが
1年2年と症状が緩和されないケースが多い。
そこでようやくその他の症状の病名が加算される。
精神疾患の病名も症状にあわせて多岐に増殖された。
簡単に「うつ病」といえるのは症状がまだ
軽いうちであって、そこからどんどん複合化
合併症みたいにパワーアップするみたいですね。

でもさ、もともとは躁うつ病からなんだから
なんで最初に「うつ病!」と
烙印を押してしまったんだろう?
ここに分裂症(統合失調症)の存在があった
のではないか?
この対極的な捉え方と
後は医療関係者の大雑把な姿勢だと思う。
診療問診をサービス業というのは御幣がありますが
なんというかきめ細かくない、荒すぎ。
右から左へ、はいうつ病、はい抗うつ剤みたいに
ステマチックに患者をテキパキ扱っていたんじゃ
ないかと思うのです。

これじゃあ患者はたまったもんじゃない。
複合的な精神疾患はその治療(薬)もオーダーメイドな
ところがあって、その人にあった薬の種類や配合分量に
めぐりあうには良くて1年~1年半、だったら
ラッキーなほうで、それ以前に症状が悪化するとか
副作用の弊害や依存症に陥ってしまう。
ま、商売優先の医者にとっては痛くも痒くも
ないんでしょうけどね。
患者はたまったもんじゃない。

これが、いままでうつ病はよく聞くけれど
躁うつ病とか躁病があまり聞かれなかったとか
いかにも最近それが増えたようにいわれる所以じゃ
ないのかな。それは昔から存在していたにも関わらず。

それと分裂病統合失調症)の存在だ。
これに比べてうつ病はイメージ的に気軽に
考えられていないか?

出発点で大別さえた躁うつ病分裂病
前者は一過性で後者は=決定的な精神病みたいに。
しかしどうなんでしょうねえ。

わたしはこの気分的なトリックに
うつ病の本質が躁欝という
躁状態と欝状態が交互にある点を
再度注目すべきだと思います。つまり、
欝状態がずーっと続くとか(うつ病
躁状態がずーっと継続するとか(躁病)って
普通で考えたらないんじゃないの?

そのことをある精神疾患患者に問うと
「違う、交互にくるのではなく正常なときもある」
と否定するのですが、それは当たり前であって
要はバイオリズムの起伏とレンジの問題だ。

人間は正常であってもそれを繰り返すものです。
精神疾患っていうのはその軽重をいうわけだ。
わたしが、みーんな大なり小なり精神疾患である
という捉え方をするのはこういった点からですが、
これがなかなか受け入れられない。
差別意識が双方にあるのが理由だ。
カテゴライズしてもなんのメリットもないと
思うのですけれどねえ。

さて、昭和ブルースから
分裂型を他者への関心(せいにする)
躁うつ型を自分への関心(せいにする)
と和田さん的には分析しましたが

躁うつ型をさらに分類すれば
躁症状型が他者への関心(せいにする)
うつ症状型が自分への関心(せいにする)
でいいと思う。
躁うつ病型タイプは一人のパーソナルティーにも
関わらずこの両面をもっていることになります。
まさにパーソナリティー障害といえるわけですね。
気分障害、多重人格といってもいい。

で、共通していえることは
「自分のことばかり考えている」という。
躁状態の他者への関心も自意識過剰のためのもので
それが否定的攻撃的にあらわれるのは
自分を肯定するための防衛本能であると考えられる。

で、その根幹はなにかというと
実は「自分」がないということでもある。
それをアイデンティティーといってもいいですし
よりどころ、とかスピリットとかバックボーンとか
とにかく精神的な支えの希薄さなんじゃないかな。
ま、それが凝り固まると狂信的で不味いわけで
そこに、本来なら非情のライセンス取得者である
会田刑事のつぶやくというか自問自答のストッパー
というか踏ん張り、歯止め、タガ、みたいな
哲学、悩むという思考の風景があったわけでが、
それがすっかり屠られました。

70年代までの日本人と現代の日本人を比較して
どっちが大人かといえば、断然前者です。
なぜなら、そういう哲学的なもの背負って生きていた。
いまの日本人が老若男女を通して幼稚化してると
いうのは、そういう深みがないからだ。
悩んでいるようで実は悩んでいない。
心配ばかりしているだけで
それも自分の心配ばかりだ。
そこに「個の肥大化」があるわけだ。
どろどろした巨神兵みたいなのが
自身の力量(器)からこぼれだして
中が空洞化していく状態だ。
だから外気にあたってよけいに刺激が痛い。
もろ生身だから過敏なのだ。過剰反応しちゃう。

なんで肥大化するか
手っ取り早いからもあるでしょうが
性急に成長や解決をもとめる


最後に、土曜日の「夜叉の改心」で
大日本正義団の吉田芳幸会長の体験談を
紹介しましたが、このやくざという人種を
在日と被差別部落出身者とひとまとめにする
捉え方をする元公安幹部の発言があります。
わたしはどうかなあと疑問視しますが
それとは別次元で
やくざという人種は分裂病型だといわれます。
改心する前の吉田さんのメンタリティー
その後の変化を観てると
なるほどなあと思いますよ。
じゃなきゃやっていけないんだよね。

すくなくと、山口組三代目とか
名親分といわれる人物は、バランスがいい。
そういう点では
やくざも堅気も関係ありません。

欝と躁は、陰と陽なのだ。
どっちがよくてどっちが悪いなんてことはない。
科学的に酸素が善玉で水素が悪玉なんてないように。
陰陽は呼吸と一緒で吸って吐くそういう循環であり
わたしはたちはそういう循環で生きていける。
吸ってばかりじゃ、吐いてばかりじゃ、窒息死しちゃう。
過呼吸になちゃうわけだ。要はバランスです。
過剰や偏りが問題なのだ。
人生の喜び哀しみを等価交換というならば
躁と欝もまた等価交換で合計したら±0
これが基本なんじゃないかな。
だからどっちか貯めこめば負債借金となって
どぼんとどばんとそりゃいくよ。普通
そこを上手にガス抜きしていくのがコツなんじゃない。

すこし、自分のことを忘れたほうがいいよ。
そういう癖をつける。それは訓練みたいなものだ。
そう難しいことでもないと思う。
恨まない。赦す。
これは日本人の文化でもあったわけで
そういう土壌が私たちにはあるんだから
それを呼び戻せばいいし、それで救われるんだもの
それぐらいは少し努力してもいいんじゃない。
なによりも今がつらいわけなんだから。
それしか手はないんだから。

非情のライセンスを取得する会田刑事の
「非情」とは、情がないんじゃなくて
情があるからこその厳しさなんだと思う。
そのへんの薄っぺらい非情なんかじゃない。

因みに、セキハラのライセンスを持っていたのは
山城新伍でしたが最後は老人性鬱病だったとか。