あかんたれブルース

継続はチカラかな

下手をうった男



ひとことでいって
わたしの父はだめな男だった。
可哀想な人でした。

そういう父が一瞬、我に返ったような
そういう一瞬の場面が
記憶に残っています。

わたしが高校生ぐらいの頃
また仕事でしくじって
家でくぶってる父が
テーブルに置いたコップ酒を見つめながら
「なんでこんな芝居を打つかなあ」
と人知れず零したのだ。
居間でテレビを眺めていたわたしは
それを見逃さず
それがなぜかずっと記憶に残っている。

そう、みんなお芝居なんだよね。
そうして生きていくしか生きられない
不器用な、愚かな人だった。
優秀な人ではあったけれど
それが故につまらないプライドを背負って
繊細で気弱な人、弱い人愚かな人間・・・

自分自身を見失っていることを
そのときどきにはこうして思い浮かべる
こともあるのでしょうが
それもその時限りのことで
後戻りできない
度胸のない弱い人間だった。

ああなっちゃいけない。
わたしにとって父は反面教師だった。
人の死は哀しむべきことだけど
ときに救いにもなる。
ああいう父親だったけれど
いまはとても切なく感じます。
わたしの悔やみの正体は
もっと自分がなんとかしてあげられなかった
という思いに尽きる。

あのときの父の年齢を越えてしまったいま
よけいにそういう思いがこみ上げてくる。
なんとかできないまでも
もっとやさしくできる場面はなかっただろうかと
想いを募らせる、ときもある。

わたしたちの多くが経験するという
ミドルエージングクライシス
喪失のなかの悔やみというプロセスは
街の喧騒のなかで
わたしを無口にさせてしまうのだ。

わたしが何度もピンチに陥っても
決定的に道を踏み外さなかったのには
父の存在があったと思います。
それを反面教師という言葉で表現するのは
なんというかあまりにも酷に思える。

赦す?

そんなものじゃないよ。
それはとても愚かなものであって
でもいまはそれが愛おしい
つらかたあだろうなあ
不安で心細かっただろうなあ
とかね
そういう気持ちのほうが先にたってしまって
その背中を抱きしめたい。
そういうふうに思えるようになった。

時計でいえば四時5分前
西日が眩しい
そんな頃合でしょうかねえ