あかんたれブルース

継続はチカラかな

脳 VS 心 屠られた安全弁



わたしはかつて心というものを体とわけて
さらに精神と魂からなるとしました。
体(精神(魂)精神)体 って感じね。

これとは違う角度の捉え方として
脳VS心 の関係があることに気づいた。
近代からこっち、戦後から堅調に
1970年代から露骨に
脳が心を抑えて我々を実行支配してきている。
すべては脳が司ってるという考えが常識化している。
どうもこれが違うみたい。

人間の特性をひとつあげるすれば「過剰」なのだ。
動物は空腹が満たされれば
無理に摂取(狩り)はしない。
人間は乱獲とか過食とか取れるだけとって
根絶やしにしたりデブになったり
これじゃ体も自然も環境も壊すよね。
こんなことは人間以外の生き物はしないんだ。
発展とか進歩もこういった特性が影響している。
無軌道な過剰は破滅に導くよね、絶対に。
この行動の愚行の歯止め、自制・制御することを
我々の思考・行動のすべてを司るという脳が
やれるかというと、これができない。
やれるものならやってみろってものです。

じゃあなにがやるのか?
心がやるんだよ。
つまり脳と心じゃ心が上なんだな。
いや上って表現は語弊があって誤解を招くかもね。
つまり脳はあくまでも臓器であって
ハードかソフトかといえばハードなんだ。
ソフトはあくまで心なんだと。

そりゃねえ新品のパソコンにも
最低限のソフトは内臓されてるかもしれない。
でも、人間の在り方を左右するする肝心のソフトは
別売り外付けオプションでもってなきゃならない。
そういものを近代化というなかで
邪魔にしだしたんでしょうね。
合理的とか効率とかいって切り捨て割り切っていった。

その結果がこれだよ。

理不尽が罷り通ってるわけだ。
これじゃ精神も病むしヒステリックにもなるだろう。
人間は本来、その営みなかで様ざまな問題を解決する
ために信仰や宗教を拠り所にしてきた。
それは人間の能力を超越したものを信奉することであり
逆にいえば、そういった苦悩は人間の力を超えたもの
でしか解決できないもの、も多いということです。
たとえば自然とかなんだけど
キリスト教などの一神教は神と直接人間とが
契約を結ぶものでイエスがそう諭したかは知らないが
その教えは自然さえも征服するという考えに発展し
産業革命以来そういった人間中心の近代化文明が
展開されてきたわけです。
今日、そういった近代化は工業発展のみに比重が
傾いたもので、そこにあるべき本当の豊かさ
それは人間の精神的な豊かさの近代化が
見過ごされ歪なものであったとも言われている。

言われたとしてもそれを省みることは
なかなかできないもので、原発ひとつとっても
こんな感じですからね。

こういうのもすべて人間が
脳でしかモノを考えなくなったのが大きい。
それもまた「過剰」なんでしょうね。

合理性、効率的、法、一般常識、マニュアル・・・
こういったものはすべて人間が拵えたものだ。
頭を使ってね。
それが悪いわけじゃない。ただ、その効率性のなかで
心の存在は紛らわしい厄介なものとされていった。

そして心は、心情は、人情は
バカにされ否定され嗤われていった。

男はつらいよの寅さんはその周辺は
どこか懐かしく温かい。
よく「あれは映画だから笑っていられるけど
ああいのが親戚縁者にいたらたまったもんじゃない」
なんて台詞を耳にします。
どこで聞きかっじったか読みかじってきたのか
気の利いたような台詞だけど
そうじゃない。
寅さんを山下清と一緒にしてはいけないんだ。
あれは山田洋次が拵えた偶像であり
私達が心の復権をはたす導であり灯なんだと
わたしは考えるが、どうでしょう。

次回はそんな寅さんの誕生秘話など絡めて
展開させてみますね。