杉山の幼い頃はそれは手の着けられない乱暴者の悪ガキ大将でした。
本日の写真の爺は茂丸の幼友達で一の子分だった。吉田磯吉です。
日本の極道の中興の祖は黒駒の勝蔵(生糸)から近代を吉田磯吉(石炭)が担い、
そこから山口組三代目田岡一雄(港湾・興業)に引き継がれます。
そう、あの山口組も系図的には吉田磯吉流れを汲む、大島組出身でした。
山口組と激突した本多会(現在の大日本平和会)も同じ系統です。
映画「仁義なき戦い」では明石組と神和会という名称で描かれましたね。
「花と竜」で敵役の大親分のモデルが吉田磯吉です。
競馬で言えば日本のノーザンテースト。
田岡一雄がサンデーサイレンスですかね。なんのこっちゃ
とにかく稼業筋では神様にみたいな偉い人!
この吉田にして、常に杉山に対しては頭が上がらなかったようですが。
これは双方の家格の差もあったようです。「杉山の坊ちゃん」
二人は後に九州福岡の発展のために手を結ぶという数奇な運命にありますが、それはまだ先の話。
吉田磯吉の話は機会があったら番外で語ります。
福岡藩は幕末の藩内粛正で「切腹!」「はい」「今度はそっちが切腹!」「はい」
と大変素直な性格が災いして人材が根絶やしととなります。
また、杉山の一世代上の頭山ら玄洋社のメンバーは西南戦争などの九州内乱に組みし、
またまた疲弊し、民権運動に呼応し、藩閥政治を糾弾する過激集団となります。
杉山も「民訳ルソー」などを読み藩閥政治を諸悪の根元とする青年に成長していきました。
自分の首と明治政府要人の首、合計2個の約束手形で借金、上京します。
上京後は新聞売りでその日暮らし、大久保利通暗殺メンバーなどと交友していたとも聞きます。
杉山の目的もテロ暗殺の類ですから「一人一殺」です。なんとも物騒!
以前上京したときに山岡鉄舟の道場に通っていたことがあったので、
山岡になんとか伊藤を紹介してくださいよ。と頼みます。
幕末三舟と言われた人物ですから杉山の目論見が見抜けないわけではありません。が、
紹介状を書いてしまうんですね。彼は大久保にも同類の若者を引き合わせているので
そいう趣味があったのかもしれません。昔の人は気骨がありました。
山岡鉄舟の紹介状を持って単身伊藤博文を訪ねるのでした。ゴメン下さい。