あかんたれブルース

継続はチカラかな

コテンチュウのコテンにコテン

情動の知性(5)コミュニケーション能力(廿八)


 コミュニケーション能力でマー君の凡例をやると云ってたのですが、
 ちょっと思い立ってまた難しい話(汗)。

 いま「易経」をかじってまして。そう五十を待たずして遂に「易経」に足を踏みれちゃった(汗)。

 中国古典のなかでも最高傑作とされる古典中の古典。
 伊坂幸太郎の『グラスホッパー』で古典は『罪と罰』という位置付けでしたが、
 やっぱ「易経」にトドメを刺す。グッサッ

 講師は安岡正篤先生です。彼の著書二冊が入手できたのです。

 で、その解説本の陰陽の講話を読んで、なるほどと膝を打つわけだ。
 忘れないうちにアップしておこうという魂胆です。

 陰陽五行は割合に理解していたつもりでしたが、学問は深くて広いなあ。

 安岡先生曰く、俗説に惑わされるなと。

 陰陽の陽が良くて陰が悪いというのは間違いだと。

 陽、陽性は対外的で行動的ではあるが、反面に偽りが隠されている。

 そこに、陰という反省や欲望を治める働きがある。そういう知性が陰に含まれている。

 易学ではその「中」というものを大切に考える。
 理性と情緒の共有。欲望と反省の相対。つまり中庸です。


 なるほど、はは〜ん、見えてきました。
 日本は70年代前半からモノ文化に奔り、豊かになって、個人主義が蔓延して、管理されていきます。
 
 陽性を尊び、欲望をむき出しにしていきました。
 それはとどまることを知らない。中島みゆきも暗いと烙印を押されてしまう。 
 知性は陰気と邪険にされてしまう。

 その兆しに戸惑ったのが思春期の青少年とその心を持ったアーティスト。

 淘汰され乖離がはじまる。

 それに拍車がかかったのが例のグローバルスタンダードです。
 所謂、アメリカンスタンダード。でもね、私たちはキリスト教徒じゃない。
 それ以前に宗教とこれほど無縁の国民は世界でも例がございません。
 免罪符とか指針がないんだな。
 実態がない。ないのに、国際基準に右往左往して背伸びして足がつりました。

 そんなもの中国人もアラブ人のアフリカ人も頓着しませんて。

 まあ、それはそれとして、
 で、篩いの電車を下車した者達は内省的な陰の知性に寄り添います。

 ただし、それは中じゃない。内に引き籠もってしまう。

 陰が悪いわけでも陽が悪いわけでもありません。
 どちらもバランスを崩している状態にあるんでしょうねえ。

 社会にも問題はあいますが、
 それを言って犯人探しをしても解決は夢のまた夢。
 それとは別に、個人個人が内々の迷宮に答えを導き出そうという作業を停止して、
 体勢を外に向けて一歩踏み出すことです。
 節度ある自然体の生き方。中庸ですよ中庸。
 基準は他人ではなく自分の「中」に置く。

 失礼さんでした(汗)。