あかんたれブルース

継続はチカラかな

ゲームの法則(2)




 心理療法にも「ゲーム」という言葉があるという。

 その患者と治療者、もしくは、悩める者と受け手である理解者との会話のやりとりを
 「ゲーム」と呼んでいる。

 交流分析ではこのゲームによって、その患者の心の傷を探るのだそうです。

 患者と表記しましたが、これは心の病を患っている人に限ってのことではなく、
 愚痴や不平や不満を訴えるすべての人たちを指します。

 それを、不憫に思ったり、同情いたり、感情移入してしまったりするのが
 相談者であり理解者です。


 幻夜さんの記事ではこう解説しています。

   いつも愚痴ばかり言っている人が居るとする・・・
   この人は被害者意識を持っていて、
   いつも世の中や周囲の人に対する不平不満、不当な扱いを受けている事を延々と話し続ける。

   この会話の相手はもちろん同情しながら聞き続ける。

   愚痴を言っている側は、
   この行為がなんら問題解決にならないことを知ってはいるが、
   話し続ける。

   この時、聞く側も内心は優しさ・同情と同時に
   怒りや拒否感なども併せ持っている。

   しかし、まだ本物の感情には気づいていないか、
   気づかぬふりをしている。

   これが続いていくと、
   そのうち「埒があかない」と聞き手が助言を始める。

   しかし

   愚痴を訴える側は煮え切らない。
   あるいは親身になっているのに態度や考えを変えない。

   次第に相手を責め始める。「あなたもいけない!」と

   そして結局、愚痴を訴える側は
   「結局私の気持ちは誰もわかってくれない」と怒って、

   終わる。

 
 こういったことは
 普通の、日常の、人間関係でもよくあることです。それでも、

 仮にそういった場面で、
 そのジレンマからその衝動を抑えても
 その解決の方策を性急に提示してしまう場合も多いでしょう。
 堂々めぐりの方向性を変えたいと思ってしまう。

 それが場合によって
 それが相談者を追い込み、負担にさせることもある。

 それが相談者にとって煩わしく疎ましくなっていることも
 わかっている。

 わかってはいるのだけれども、どうにもならない。

 上手くいかない。
 彼らは専門医でもなく、そこは医療機関でもない。
 彼らはカウンセラーではなく、友人であり理解者であろうとした者たちです。

 お互いを分かり合える、理解しあえることは、難しいものなのでしょうか。


 「ゲーム」

 こう名付けた者の冷酷な洞察力に溜め息が出る。

 実際には交流分析として、そこから問題を掘り起こして、
 解放し、解決させるのだといいます。

 けれども、「ゲーム」のルールと主導権は常に相談者が握っていて、
 なかなかそこまでたどりつけない。

 「ゲーム」にはそういう悲しい法則が付随している。

 その終わりとは、ゲームオーバーかゲームオーバーかゲームセットなのか。
 打たれたピリオドは終止符を意味するのか
 それとも、振り出しに戻るのか
 
 それとも、時間と時期タイミングだったのか

 それとも


 幻夜さんの記事はこう締め括っていました。

   交流分析とは、こんなやりとりの中から
   個人の心の汚れの腺(いちごの鼻の毛穴の様な)
   いわば子供の頃に受けた心的外傷がどこかにあるのかというのを探し出し、
   見極め、引きずり出し、一度そこに返り、考えを書き換えさせて、
   個人を縛り付けていたものや
   抑圧していたものから開放し、自由に、あるいは
   楽にしていくというものである。