あかんたれブルース

継続はチカラかな

エリート軍人の変遷



軍事探偵、いわゆる「スパイ」は明治維新をむかえて
大急ぎで仕立てられて量産されました。

仕立て屋は新設陸軍参謀本部の次長川上操六です。
この薩摩人は骨のズイからプロシャ主義です。
ドイツは国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている。
それをベースに参謀本部員イコール軍事探偵という図式で
優秀な人材をこれまた新設の陸軍士官学校からスカウトして
参謀本部附として現地に派遣して、情報収集させて、有事には
その知識、その経験を生かした彼らが作戦もたてる。

こういったのはドイツ主義を発展させた川上式の日本オリジナルです。

日本が開国して明治をむかえたとき、そりゃあ慌てました。
薩摩藩も間諜は発していましたが、それは国内の他藩幕府に対してです。
鎖国時代の諸外国の情報は長崎の出島でしかわからない。

特に海をへだてた清国・朝鮮の情報収集(後に満州・シベリア)は
急務だった。

軍事探偵は中国語の勉強からはじめた。という具合に手探りでした。

明治を代表する軍事探偵の一人、青木宣純などは福州に派遣されて
現地で北京語が通じなくて愕然(涙)。ノイローゼになったほど。
そこから広東語とか福建語とか上海語を学びなおすとこらから再出発です。
なんとなく、その苦労がわかるでしょ。

一番の危機感は対清国というんじゃなくて
そこに侵食してくる欧米列強の植民地支配です。
なんとかそれを食い止めないと・・・日韓清を運命共同体と考えた。
同じアジア人として同胞としてです。

日本の侵略戦争がなんたらかんたらというけれど
それは時間軸の捉え方で、少なくとも日露戦争戦勝までは
日本は謙虚だった。それはまた記事にします。

そういったなかで、参謀本部支那通(シナ通・中国通)軍人が誕生します。
中国情報のエキスパートですね。
彼らは陸軍士官学校出身のエリートです。なかなか試験が難しい。
軍事探偵として深く現地で活動していくうちに、
清国の脆弱な体制を痛感します。(それは韓国も同じです)

このままでは、清国も李朝朝鮮も列強の食い物になるのは時間の問題。

それを嘆く漢民族(韓国民主化活動家)と接していくなかで
「義侠論」と揶揄される三国運命共同体的な思想を持ち始めます。
これが後の「大陸思想」に発展していく。

それは決して、日本が支配する。という考えではなかったのです。
それが日本の「安全保障」であり、「アジアの保全」というものだった。

話を飛ばしますが
こういった支那通の軍事探偵参謀部員がそのうちに
純エリートではなくなっていきます。

ひとつは陸軍大学の開校というさらなるエリート集団の誕生がある。
これを現在の公務員にあてはめてキャリア組と考えてみてください。
いつしか士官学校だけでは即エリートとはならなくなったわけです。

軍事探偵というのは乞食や苦力(肉体労働者)、行商人に化けて
生命の危険も顧みず、汚れた仕事なのです。
時には軍籍を離れることだってある。官僚化していく軍隊では
損な仕事になっていきます。ノンキャリアの仕事というか・・・微妙。

陸軍大学出身のエリートたちは海外駐在武官として留学して
欧米の社交界やら学校で学ぶ。
当然外国語は英語、フランス語、ドイツ語が主流となります。
わざわざ中国語を学んで吸収する学術(軍事技術知識)的なものはないわけだ。

川上操六が死去してからは特にその傾向が高まっていきます。

花田仲之助はそんななかのそんな時代環境のなかの
それももっとマイノリティーであるロシア研究に発奮した軍人でした。
ロシアも欧州にあっては後進国です。
ただし、その貪欲な南下政策に対する警戒感、危機感は、
幕末の頃からあったのです。