あかんたれブルース

継続はチカラかな

緊張からリラックスの時代へ

日本人の愛と死と性と生(7)


前の記事の続き

人間の歴史が繰り返しているように感じるのは錯覚で
螺旋を描いて進化している。
そこに時間が存在します。
すべてはプロセスであり、その過程のなかに現在と私たちは生きている。

19世紀から20世紀にかけて
私たち人類はようやく「愛」というものを意識しだした。
産業革命によって豊かさ手にしたからでしょうか。
禁欲的な教会に対しても冷静に対処することができただろうし
哲学的に愛を考察するゆとりも手にした。

日本の近代化もそれと無縁ではない。

民度がすこしずつ高まっていきます。

どんなものにも長短はある。
民度の高まりによって、脆弱にひ弱になったりもする。
神経質になったり、臆病になったり、懐疑したりする。
自然に対する恐れ多さから
他に対する、己に対する怖れを持ったりもします。

セックスに対しても愛が介在することで
混乱を伴う。プラトニックな気持と本能的な欲望が乖離する。

知性が邪魔をします。

そこで割り切ろうとしてしまう。

新しい刺激をもとめることで、打開しようと試みる。
手法は人それぞれです。

レイプということで刺激をもとめることもあるようです。

征服したい。征服されたい。
汚したい。汚されたい。
そういう欲求があることも事実だ。

しかし、愛という存在を意識したときに
相手を悲しませる行為がそれに値するだろうか?
本能的保身とそれを混同していないだろうか?

レイプできる者に愛はない。
愛がある者に、愛を感じえる者に、それは決してできない。
自己愛としてのプライドも許さないだろう。

20世紀という100年を私たちは試行錯誤して
愛というものを確認しようとした。そして疲弊したのだ。
性急にはやる苛立ちを抑えるために曖昧にしてしまった。

愛を偶像化して崇拝はしているが、その実態がわからないでいる。
ただ、否定することはできない。なんとなくはわかる。
なんとなくは・・・

愛はそんな生やさしいものではない。
愛は死でもある。
死を受け容れることだ。
自我を殺すことだ。己を断つこと、空しくさせること。
そこに究極のエロティズムがある。
そこに自由がある。

人間は死にたがっている。

そして、愛は生である。
愛によって生かされる。生と死をともに与えてくれのが愛である。
セックスにはそれがある。

愛とセックスを分離させても混同させてもいけない。


21世紀を宗教と哲学の時代だといった友人がいた。
それをもう一歩踏み込めば
21世紀とは愛の時代だ。
人類は、それにようやく向かい合えるようになった。
産業革命を経て、ようやく精神革命の時代が到来したのだろう。

すべての価値観を払拭させる時機でもある。

そうしなければならない。というものではなく
そういう時機であり、段階なのだと思います。

イデオロギーの時代は終わります。すでに終わっている。
利権とエゴと嫉妬と保身と不信と不安だけが残っているだけだ。
この課題をクリアできなければ
人類は次のステップを踏むことはできない。
淘汰がそれを約束していると嘯く愚者もいる。
それでは解決はしないのだ。

大丈夫、できるよ。
人間はそういうふうにインプットされているんだ。
この閉塞はすべてその兆しである。

なぜ戦争は起きるのか、殺戮や強姦が繰り広げられたのか
そこに愛が欠如してしまったからです。
環境的な、状況的な、そして時代的な、条件がそろっていなかった。

もう、そういう時代は過ぎた。
すくなくとも、この国では
次のステップを踏む段階にはいっています。

反省だけではダメなのです。考えるだけでも足りない。
変わること、そして行動することで
それは生まれる。



取り敢えず、以上です。