第三回『手と声の輪』後記
愛についての謎は多く大きい。
けれども、人はそれをそのままにしている。
それは、それを解明しなくても生きていけるからだ。
むしろ、そんな難問に関わってしまうことを厭う。
そのためには、すべてを愛としてしまうことが良作だと考える。
けれども、決してそれでは満足できないのも事実だ。
時間差、個人差、環境差だけのその場しのぎの提言が横行している。
「いいじゃないです」
なにがいいのだ。
「ひとそれぞれ、いろんな愛があって」
それはそうだけど・・・
それをいっちゃあおしまいよ(涙)
なんでそんなに物分りがいいのだろう?
私達は自由を平等を愛を叫ぶ、けれどもその本質を知らない。
知ろうとは思うのだろうけれど、あるところまでくると
曖昧にしてしまう。
現実ということばを理由にして。
しかし、その現実という本質さえも理解していない。
それは遭遇したひとつの事例や事象でしかない。
それだけの断片だけで私達が現実を語るとすれば驕りでしかないのだ。
租借できない矛盾の闇に恐れて煩わしくなってしまう。
そこに踏み込むことにどんなリスクがあるのだろうか?
費用などかからないぞ。
時間は労するかもしれないが、どのみち、うすらぽかんとした時間のなかで
生きていることのほうが多い日常のなのだ。
ひととき「愛」について想いを馳せてもバチなど当たらないと思うのだが、
そういうことを厄介なことだと考えてしまう。
○見えるものが見えないもの
○見えるものが見えるもの、見えるものをみないようにするもの
○見えないものがを見るもの
大別すると人間はこの三種類にわかれるという。
選民意識とか、上から目線とかじゃかくてれだよ(涙)
愛とは、目に見えないものなのだろうか?
では、時折わたしの胸を熱くする
この瞳から零れる涙の理由は何か?
たんなる熱血さんとか冷静さを欠く暑苦しい人とするなよ(涙)
イメージだけで感動しているのではない。
そこにそれは確かに存在していた。それが愛だと思う。
愛は決して見えないものではない。
わたしはたくさんの愛にふれて、包まれて、生きて死にたいと思う。
育み、交流し循環させていく営みのなかで幸せというものを
体感していたい。そういう欲求と欲望を受け入れて、そのまま
生きていたい。そして死にたいと願う。
愛を綺麗事で奉りあげ封印してしまうのではなく
それをただときおり羨望するのではなく
健全な、率直な、人間の欲求として欲望として認めて
それをつかむことが私達のしあわせなのだと思うのです。
受身ではなく能動的に。
曖昧にしてしまおうが先送りしてしまおうが
そのことを避けては通れない宿命を私達は背負っている。
すべては時間にあるのだと思います。
人間は時間に支配させれている。それは有限である。
その限りある時間のなかだからこそ、
その時を愛で塗りつぶす。
人は愛で死ぬ。愛で死にたい。
それが生きているという証なのだ。