あかんたれブルース

継続はチカラかな

哀しみの暴力

暴力を考える(3)


この場合は、暴力の痛みを十分知ったうえで
あえて行使したってことでしょうね。
どうしてもやらなきゃいけない状況・・・

昔のドラマにあったわからず屋の恋人を
「馬鹿!」って平手打ちするやつです。
青春ドラマとか刑事物で男同士だったら拳固です。
(おんな子供を「グー」で殴るやつは最低)

でも、これって漫画というか定番パターンになってしまって
逆に暴力を否定する要因を作ってしまった。
これこそ、別に殴らなくても、と思うし。
殴られて目が覚めてそこに愛を感じたという
のんきな展開も興ざめしてしまうわけだ。

殴ると殴った手が痛い。上手くできているものです。
剣道なんかでは防具をつけてても打たれると痛い。
子供の面銅小手でも痛いよ。
先生や先輩は打たせてあげるんですよね。
それで子供たちは上達していく。
この先生や先輩たちは、やはり自分たちがそうやって
自分たちの先生や先輩に打たせてもらって教えてもらったから
それを引き継いで指導するわけだ。
偉いもんだと思うし、良い循環だと思います。

前記のドラマの話は漫画ですけれど、
たとえばこういった愛情のある暴力(打つほうも打たせるほうも)
は、あると思います。

なにを言いたいかといえば学校教育の体罰だ。
そういうのをすべて暴力として禁じるのは不味いと思う。
いや、体罰がなくても指導はできるというでしょう。
でもね、それはある程度の力量がある先生であって
そういうふうにできるようになったら別にしなくていい。
教員試験に合格した20代の先生にそれは難しい。
もっと先生を育てるという環境が必要じゃないのかな。
民間だったら、新人とか若手とかあるけれど
教職員の場合は最初から「先生」ですからね。

問題はそれをすべて封じることによって
生徒がなめてかかる。

痛みを知らないままで成長する。

つまり痛みも学びであり、
暴力も学びだ。

昔の親は、ちょっとそっと殴られたからって文句はいわなかった。
子供もそうそう泣きはいれなかた。
また、みんなが暴力の手加減を知っていたと思う。

わたしは散々殴られたほうで、
なかには日教組の馬鹿幹部の担任から
憎しみを込めて殴られたこともある。
上級生からリンチもどきとかも受けたりしましたが
それに比べてもあのときの馬鹿担任のビンタは
ネチッコクて今まで生きてきた中で一番ヒドイものだった。
そういう先生もいます。
高校三年までに一生分の受けるべき暴力のノルマは達成したと思う。
そういうなかで別にいい思い出ばかりとは限らない。
いま、考えてもあのとき飛び掛っていって
相手の指での噛み千切ってやればよかったと
夜中にふと思い出したりなんかして、カッと瞼が熱くなるときがある。
それでも、体罰を封じてしまうのは不味いと思います。

「ほら、そんな嫌な想い出が生まれるでしょう」

それでも、暴力すべてを封印してはいけない。
要は「質」の問題なのだと思います。