あかんたれブルース

継続はチカラかな

鬼の話

チェブラーシカと一緒に(7)


そして、鬼の話。
(これに繋げたかったんだ)
ただし、ここでいう鬼は渡来人だったとか
五色人のうちの赤人だったとか
妖怪、地獄の番人、宇宙人という類ではなく
仕事の鬼、捜査の鬼、ラーメンの鬼とか
一芸に秀でたスペシャリスト、これも除外して
身近な私たち自身の鬼について
考えてみたいと思います。

いやあいろいろ痛ましい事件が
次から次へと起きますねえ。
よくもまあこんなことができるものかと
いじめや虐待・・・親が我が子に手にかけるなんて
そして凶悪犯罪から先日のストカー犯罪など。
人間の所業じゃない。まるで鬼だ。

つまり、鬼という存在が人間以外に存在する
じゃなくて、人間が鬼に変身してしまうということ。

心ないという表現があります。
この心ってなにかといえば、良心とか情だと思う。
情に対して無情、情け無用とかある。

わたしは、現代人は情けというものをいつの間にか
マイナスに捉えるようになったと思うのです。
その原因に1967年からの
マカロニウエスタンブームがあった。
これは仮説ですけどね。
ヒルっていうのが浸透して定番化しちゃった。
まあ、それ以前からシビアなドラマはありましたよ。
蟹工船とか白い巨搭とか
しかしこのマカロニウエスタンで大きく基準が変わった
と思うのです。
昔、みなもと太郎のエッセイで
(たしか、『お楽しみはこれもなのじゃ 』)
まぼろし探偵』を例にして、昭和30年代までは
悪役にも良心のある表現をしていたとありました。
悪役団が警察隊との銃撃戦いで勇敢な警官の殉死に
「敵ながら天晴れな奴だ」という台詞。

それが1968年からがらっと変わったんじゃないかなあ
たとえばジョージ秋山の『銭ゲバ』『アシュラ』なんかが
エポックだったのかも。
か、笹沢佐保の『木枯し紋次郎』かな
「あっしには関係ございません」

前に毒舌や悪態が本音っぽく知的と錯覚されたと
記しましたが、それ以前は「ニヒル」があったと思う。
大映座頭市眠狂四郎のギャップであり
かといって大菩薩峠の机竜之助は普遍的じゃなかった。

少女漫画『NANA』なんて読むとその台詞は
今さらマカロニウエスタンなので
ああこういうのがすっかり浸透しちゃってるんだな
と昆布茶をすするわけです。

それに比べて情けなんてものは大暴落だ。
寅さん=頭の悪い人ですし
精神医療マニュアルから情けは悪とされてしまった。
上から目線だという強迫も添えられて。

その結果、情けない社会になったのだ。

そう情けないというのは非情というだけじゃなく
浅ましく、恥しい、頭の痛い世界だよ。
心を鬼するというのもここで履き違えられた。
そして心を鬼にして平常心を失い
「躾け」とか「指導」とか「愛情表現」をやらかす。

鬼だよ、鬼。

私たちの心に鬼が棲んでるんだ。

そういうのを病気のせいにするアイデアもありますが
どうなんだろう? 
それで納得できるか? 解決できるのか?


通り魔事件、例えば川俣軍司の深川通り魔殺人事件
などを代表するような凶行には「電波」なるものが
影響を与えていたといわれています。
これは一理あるといえる。
聞こえるそうですね。そういう声が
「殺れ殺れ」って命令してくるんだと。
そしてそれに従ってしまうのだと。で、鬼になる。

保険会社のCMのブラックみたいなものだ。
「最近つきまとわれちゃってえ(涙)」

ずっと支配されたままの人もいれば
犯行後に我に返る人もいる。
「どうかしていた・・・」と
魔がさした。というのもよく聞きます。

どうもこの魔というのと鬼というのが関連している。
魔=鬼なのかもしれない。
と思えば、魔よけとして鬼瓦なんてある。
まさに毒で毒を制す、鬼で鬼を、魔を祓う。

じゃあなんで魔はさすのか?

病魔という、たとえば風邪とかは
疲れたとき、気が緩んだときに引くものです。
免疫力の低下もある。
脇が甘くなってしまった。腋臭じゃないぞ。

節分のときに「鬼は外、福は内」と豆まきをします。
あの内と外は家のなかの内と外ではなく
私たちの心の内と外なのかもしれません。

それは、
笑ゥせぇるすまんの喪黒福造が言うように
「ココロのスキマ」に忍びよる
きっとそれが
電波だったり魔だったり、鬼なんでしょうねえ。


つづく