あかんたれブルース

継続はチカラかな

単純明快なアレルギー反応

インディゴ酢豚らんち(4)


このアスペルガー問題には
教育現場の対応と保護者の認識の問題があります。
常識の妄信と思い込みだ。

あるカテゴリーの枠組みのなかでないと
納得しない、咀嚼できない、迷信のような
呪縛にある。
すくなくとも、本来そこまでの保守性は
たとえば日本人にも戦前まではなかった。
たかだか戦後の、それも高度成長期後の
テレビが普及してからのほんの半世紀ぐらうの
話であって、作られた常識でしかありません。

情報の普及の仇花として、定番化・パターン化
してしまった人格の既成化とでもいうのでしょうか。
社会でも、教育機関でも、そして個人的にも
枠組みが拵えてしまったわけです。
そしてそれが徐々に狭まっていった。

みなその枠内に収まろうと必死になっている。
すこしでもはみ出し者をみると攻撃(批判・否定)
したい衝動に駆られます。
これは共同体の秩序を守るという以前に
自分自身を正当化するためでもあり
自分がここまで努力していることに対して
(相手の無軌道が許せない)不公平感への
鬱憤ばらしでもある。

そういった、意識(ある種の悪意)に対して
繊細で過敏なインディゴチルドレンは
たとえそれが自分に向けられていなくとも
拒絶反応をしめしてしまう。
場にある「気」に反応してしまうのですね。
それが不登校や自閉につながっていく。
もしその対象者が自身に向かえば、なおのこと。

それでも社会は、教育者は、保護者は
そういった社会に適応させようとする。
確かに、人間育成の発達の過程で「慣れる」という
社会学習、適応は重要です。
保護者としては、現実としてそういう過酷な社会
であるからこそ、生きる力を養ってほしいと
願うわけだ。が、その社会がある程度健全であるなら
それも十分な正当性と価値があります。
しかし、いまの社会はそれに値するでしょうか?
今日のニュース、昨日のニュース・・・
今年のニュース、昨年のニュース・・・
犯罪、事件、偽装、卑劣、悪意、悪質・・・
悪徳が氾濫しているじゃあありませんか。

(発達)障害と診断された親たちは
大きくふたつに選択をわけます。

一般の生徒と同じ環境で学ばせたいと考える。
もしくは、特別な支援をもとめる。

まったく異なる選択ですが
教育機関がまったく無理解なことから
そのどちらもあまり効果を発揮しないどころか
弊害のほうが大きい。
従って、従来のように教育機関や教育者に
多くを求めるのは無理がある。
まず、親が発達障害という「障害」という
認識を改めて、個性とかオリジナリティー
受け入れてみることが、はじめの一歩ではないかと
思うのです。

日本は儒教の影響でどうしても上下でものをみる。
従って親子関係にも上下があって
子は親の支配下にある存在と考える癖があります。
自分の思い通りにしたい
コントロールしていたい
それを躾と勘違いしている場合もある。
また、自分の目論見通りの子供でなければ
落胆し、それを直接・間接的に子供に訴える。

繊細で傷つきやすいインディゴたちは
途方に暮れてしまうのだ。

障害じゃない。
被害者じゃない。
権利ではないんだ。
自分の子供をもっとよく観てあげてください。
医師のそんな処方箋なんて気にするな。

あいつらは商売なんだからね。
それに何もわかっちゃいないんだ。
薬なんか飲ますなよ!