あかんたれブルース

継続はチカラかな

FNS歌謡祭の変耐性とSM変態祭

I&U研究所(残酷な話-9 追悼団鬼六


暮れのせいかそれとも最近の流行か
音楽番組が目白押しですねえ
しかし昨夜のフジの歌謡際は酷かった。
コラボの意味が・・・
スマップも下手だけど他もひどいんですねえ。
歌の上手い外国人しか安心していられない。
あんなのになんで歓声嬌声なんだろう?
変態だよ。

変態といえば、SM、縛りと鞭とロウソクの世界
というわけなのですが

その代表的な作家で亡くなられた団鬼六先生
このブログでも団先生のことは
何度も紹介してきましたが
SM=変態であれば、先生は
正真正銘の変態なんですね(笑)。

けれども、団鬼六という人はとても優しくて
温かい情の深い人間味のある人物だ。
先生という称号が与えられるに相応しい。
団鬼六を知るものであれば、そう考えるの
当然なのではないかと思う。

いっときますけどね、わたしはそっちの趣味は
金輪際ありませんからね。いたってノーマル
ノン気、絶倫でもテクニシャンでもない。
むしろ気がはやってスタートと同時に
フライングして転ぶ失格タイプだ。
わたしのことなかどうでもいい(怒)。

倒錯の愛の世界にあるというSMの扉を開いて
本日は探求してみます。
というのもこのシリーズのテーマ
「食の安全」から「残酷」に絡んでだ。

団先生のノンフィクションのなかに
責め絵師伊藤晴雨を描いた
『外道の群れ』というのがあります。
晴雨は美人画竹久夢二と同時代の人で
夢二と美女(お葉・『黒船屋』のモデル)を
奪い合った因縁の仲。情緒と変態の対決だ。

この責め絵というのには歴史があって
つまりひとつの文化として成立していたわけです。
だからSMは産業革命も文明開化も宗教も
関係ありません。古今東西万国共通の人類性癖。

ここに不思議な図式が成立する
愛とセックスを結ぶことに文科省さえも異論はない。
ところが、そこに変態まがいのSMが繋がっていて
それは愛とは対極の「残酷」に結ばれている。
これはどういうことなのか?

そういう人たちを「変態!」とゲイやハゲやデブ
のようにカテゴライズするならば、だ
つまり精神的に問題のある異常者みたいに
差別するとして、するんでしょうねえ。
普段は紳士のようで実は・・・みたいな

ところがだ、じゃあ団鬼六はどうなるの?

わたしはあんな人間味のある優しい人を知らない。
それが変態なら・・・聖人は変態なんじゃないかと
さえ思えてしまう。
それで聖人になれるのなら、
わたしは修行しようかなとさえ思うほどです。

いや、つまり、なんで団先生ほどの人が
SMという責め、残酷の世界に
どっぷり傾倒したのかいうことだよ。
これは団鬼六の個人的なレアケースを探る
という趣向ではなくて、なんというか
人間の普遍的本質を探る手掛かりではないかと
考えるわけです。だって責め絵は歴然として
ジャンルとしてあり需要があったわけだ。

団鬼六の自伝的作品に『蛇のみちは』と
いう名作があります。
そのなかのひとつのエピソードで
SM作家駆け出しの頃の団鬼六が秘密クラブで
あれは世田谷だったか幡ヶ谷だったか
まあ高級住宅街の貴婦人がお金に困って
縛られるアルバイトをしてるのですが
それがまあ品があって清楚でなんともたまらない
のだそうです。
そのときの彼女の表情が堪らないのだ
と、先生は告白させれていた。

つまり、ギャップなんだろうなあ
と、わたしは思うのです。

ここに感情移入があるんでしょうねえ。
人一倍感受性の豊かな団先生はそれに
そのギャップのなかに生じる憐憫に感応するわけだ。

これって・・・
レ・ミゼラブル』のエポニーヌと一緒じゃないか?
浅田次郎さんの
『メトロに乗って』軽部みち子であり
『ラブレター』の康白蘭であり
『天国の百マイル』のマリと一緒じゃないか!

三日前の火曜日の記事に
残酷の反語って可愛いじゃないかと呟いて
その途中か延長線上に可哀想があるとした。
愛には憎しみというものがセットされている。
愛憎は表裏一体のものです。
性交のなかで双方が残酷を求める不思議を
文科省は見て見ぬをふりで通している。
そんなもので性教育なんかできるか!
いじめもなくならない。

咀嚼できずに
割り切ることだけで納得させてきた
それがすべての間違いのもとなのだ。

団鬼六のその手立てを決して正当なもの
とはいえないのですが
心優しい団先生が藁をもつかむ思いで探りあてた
愛の軌跡だったんでしょうねえ。
ただし、だ。これは団鬼六だけに適用される
個人的な分析
であり、SM・変態=万歳!とはなりません。

当然そこには個人差があって
履き違え勘違いがある。
真性と仮性と似非があるのだ。

それは最初のボタンの掛け違いから
割り切るという発想が生んだ弊害から
セックス=刺激と直結させてしまったからだ。
それを人間の性である「過剰」が牽引していく。

もっともっと、もっと刺激を
そこにSM・変態プレイが位置づけられる場合もある。
それが一過性のものなのかどうかは人それぞれです。
もともと刺激を求めての好奇心の巡礼者だ。
それじゃあ満足はできません。
結局はその多くが薬物に頼ってしまうようです。
押尾学の事件がよい例です。
また清国をダメにするターボとなった
アヘンもその道具として活用されていたわけだ。

そんなものを用いても
残酷に感応することはないのだ。
むしろ、その残酷さを麻痺させてしまうだけ
逆方向なんだよね。

現代社会で生きている私たちは
薬物こそ使わないかもしれないけれど
この割り切る(分別)という思想をもって
正当な感情を麻痺させているのかもしれません。
そんな感情や感性は邪魔になり
効率的に生きていけないと考えるのでしょう。
情けない話だよ。

話は蛇行して横道にそれたように
思われるでしょうが
大丈夫、わたしは見失ってなんかいない。
ただどうしても、この件
外せなかったのです。

テーマの本筋は「食の安全」だ。