あかんたれブルース

継続はチカラかな

反戦作品の取り扱いの注意点



一昨日だったでしょうか
テレビ東京でTV版『永遠の0』をやってて
チラ観しました。
場面は後半で佐伯賢一郎が終戦後3年経って
ようやく宮部の母子と対面するところだった。

前回、金曜ロードショーで映画版を鑑賞して
原作との違いがすこし気になったと記しました。
あれじゃ単に宮部が臆病者というだけの
凄腕搭乗員じゃないか、と。
原作の映画化っていうのも難しいものです。
ちょっとしたことで違和感が生まれる。

そのひとつがこの場面で戦争未亡人となった
松乃の頑な態度だった。
賢一郎が娘清子にジュースでも買いなさい
と渡したお金を完全拒絶したところ
対して、TV版では一部条件付で受けいれてた
ようにみえて、ちょっと安心してテレビを消した。

ストーリーのなかでは本筋と関係ない
ちょっとしたことなのに
そのちょっとしたことで作品のニュアンスや
整合性に大きく影響するときがある。

火垂るの墓』でも
なぜあそこまであの兄妹が追い込まれなければ
ならないのか。
フィクションなだけに叔母の仕打ちが
プロレタリア文学特有の誇張したグロテスクな
作風なのではないかと。

海軍士官の子弟が路頭に迷った場合
しかも英霊として、組織は彼らを見捨てない。
その組織とは無機質な仕組みだけじゃなく
そこに属する生身の人間たちがそうはさせない。
現在でも官僚・役人の世界はあるではないか。
とは別に、昨日のNHKのドキュメンタリーにも
あったようにどんなに苦しくても
周囲がそれをほおっておいたりしないのが
日本人であり日本の社会だと思います。

そりゃねえ、なかにはヒドイのもいたでしょうけど
はだしのゲンの母の友人のキヨとその家族のように
阪神大震災のとき法外な値段で物を売った連中みたいに、きっと場所的に在日の仕業じゃないかと思ったりするわけだ)

でもみんながみんなそうじゃない。

戦争の悲惨さ無情さはそんなんじゃない。
絵空事でデフォルメしてほしくない。

で、話を下世話にしてみるのですが
節子が幼く可愛いくなかったらどうなんだろう?
もっといえば
宮部の未亡人松乃が美しくなかったら
美しいというのは外見的にも内面的にもと
いうことです。
大阪に訪ねていって
そこにいたのが泉ピン子だったら・・・
せいぜい足長おじさんとなって
軒下に毎月給料の三分の一ぐらいを
置いていったとか?
まあいい友達として相談相手にはなっただろうけど
再婚したかどうか。
むしろ、一生かけて守るということ
=結婚
とはならないわけだ。
未亡人と再婚しなくとも
このドラマは十分成立したとは思いますけどね。

話をもとに戻して
反戦だから、という大義名分を理由に
なんでもかんでもデフォルメしちゃ
だめだと思う。
そんなことしなくとも十分悲惨なわけだし
下手に手を加えるから嘘っぽくなってしまう。
実際の戦争体験者が少なくなっていくなかで
そのことは作り手側がしっかりと
肝に銘じておくべきことだと思いました。

ところで、『永遠の0』に対する
「特攻を美化する」という批判は
なくなったのでしょうか?