あかんたれブルース

継続はチカラかな

大阪の醤油屋がはじめた朝日新聞

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メディアと民主主義(4)


朝日新聞が誕生したのは明治十二年(一八七九年)です。
毎日新聞東京日日新聞)の明治五年(一八七二年)、読売新聞の明治七年(一八七四年)
に比べると少し遅いスタートでした。

もともとは大阪の醤油屋が始めた小新聞

業界紙じゃないよ(汗)

小新聞とは家庭欄をベースにしたもの。
対して大新聞というのがあって
こちらは政治的な論説が中心のものです。規模の大小ではない。

大新聞は自由民権運動と結んでいました。
機関紙的なものも多かった。
それに対して政府直結の官報・御用新聞もあったけれど
購読者の存在がありますからね。新聞はビジネスでもある。

過激な政府批判や煽動に危惧をもった権力者側は弾圧と懐柔に努めていきます。
報道の力を痛感していったのです。

もともと醤油屋の商人(木村平八・騰)にさほどのポリシーなんてない。
新聞が儲かりそうなので始めたのですからね(汗)。

ところが結構な金喰い虫なのだ(汗)
平八は創刊からの二年間で三万数千円の資金をつぎ込んだといいます。
そのかいもあって
創刊一年後には大阪でも屈指の人気新聞と座を獲るのが、
初代編集主幹の津田貞の積極経営策と対立した木村平八は嫌になって
一万円で村山龍平に経営権を譲り渡す。

村山龍平は創刊時から参加した朝日の社主ですが、
これによって経営権を手に入れて実質的なオーナーとなった。

とはいかない。とにかく新聞はお金がかかるのです。

とにかく、朝日新聞は再スタートを切った。
明治十五年(一八八五年)に朝日新聞は資本金を三万円に増資します。

この時、村山は入社一年目の上野理一に約三分の一を出資させる。
このことは長く秘事とされてきた。
その内訳は、村山が一万三千四〇〇円、上野が六千六〇〇円。
そして小野十作という人物が一万円。

小野は単なる名義貸しだけであり、その資金は明治政府から出たものです。
政府の懐柔策のひとつと考えて間違いありませんが、
問題は、入社一年目の上野理一に六千六〇〇円も出させたことです。

実は、上野理一は三井のヒモ付きだったのだ。

朝日新聞は創業まもなくして、政府と三井の援助を受けていたことになる。


と、まあこんなところですが、
いまでも朝日の大株主はこの村山家と上野家なのです。
朝日は三菱系じゃないの?とクビを捻る方もいるでしょうが、
それはもう一代先の姻戚関係で生まれます。