あかんたれブルース

継続はチカラかな

観てもいない映画レビュー



トリックスターさんが
『ことの終わり』(1999年)という映画を紹介していた。

馬太郎は観ていない。にも関わらず
考えさせられてしまった。
原作はグレアム・グリーンの『情事の終わり』
公開時はR指定だったそうで、なんとなくわかるでしょう。

トリックスターさんのレビューが素晴らしい
http://blogs.yahoo.co.jp/trickstar2003jp/53068010.html

『三人の名付け親』を宗教色の強い作品としたけれど
この不倫メロドラマだって宗教色は濃厚だ。

わたしは、宗教の重要性を認める。
それを前提として、宗教は愛を認めない。
と、思う。
一神教であろうがなかろうが、
あたかもその存在に嫉妬するように
不特定多数で曖昧な博愛や隣人愛ならいいけれど
人が人を愛すことを許さない、恐れている。
気がしてならないのです。
仏教ではそれを煩悩として戒める。

この『ことの終わり』もストイックな作品だよね。

ところで諸君、私達日本人が信奉する愛とは
いったいどんなものなのだろうか?

というわけで以前このブログで
こんなアンケートを試みてみました。
あなたの愛する人を犠牲に地球を救えるとしたら
あなたはそれを受け入れられるか?

その愛する対象が自分の子供だった場合。
わたしは断腸の思いでそれを受け入れるかもしれない。
ただしこれには多くの女性陣、馬太郎シスターズたちから
異論が出て、到底それは認められないという意見も多かった。
なるほど、その個人差はあるでしょうが
そこには性差の問題もあり、彼女らの母性はそれを許さない。
彼女達は我が子を愛しているわけだ。
合理的ではないといわれようが関係ない。

では、それを受け入れるわたしの愛は偽りで
彼女達のそれよりも我が子に対する愛は小さいのか?
たぶん性差だけではく生死観の問題とか色々でしょうかねえ。

神や仏が恐れたのはそういった愛の力、狂気にある。

また、もしその相手が恋人であった場合

わたしは再び苦慮して、恋人を選択する。
世界の命なんてどうでもいい。
ここにも不合理がある。
愛は世界を敵にまわすのだ。

神や仏が恐れたのはそういった愛の力、狂気にある。
それは施政者も同じなのでしょう。

だから、千昌夫が歌う「星影のワルツ」の
♪別れることはつらいけど仕方がないんだ君のため
という歌詞は嘘っぽいと舌を打つ。
そこに部落問題があったかなかったなんて関係ない。
そんなものじゃない。とかね

この映画の原作者グレアム・グリーンの『情事の終わり』が
体験による実話かどうかは、知らないけれど
このストーリーを納得させる前提には
ことのはじめが不倫だったことにある。
これがそうでなかった、つまり正当な婚姻関係だった
男女の悲劇として成立させられるかは、大いに疑問。

欧米の哲学はキリスト教と密接に関係し発展しました。
倫理観もそから生まれたものです。

そして、私達はキリスト教徒ではないわけです。

それでも、このストーリーに愛を真実を垣間見てしまう。
なんと愚かで哀れな、ヒロインの純粋純情、一途な健気さに
救われる思いに駆られる。

間抜けな主人公を返りみることなく
わたしは、ただ
彼女の姿に跪くのだ。



(本日の名言)

講釈師みてきたような嘘をいう