あかんたれブルース

継続はチカラかな

チェブラーシカと一緒に

ミネルヴァの焼豚(8)の続きかな(汗)


死ぬまでにしたい10のこと』で
彼女が書き記した3番目の課題

「娘たちが気にいる新しいママを探す」

それは隣に引っ越してきた子供好きの女性だった。
もともとは産婦人科の看護士だったけれど
いまは介護士をしているという。
その理由はある哀しい出来事がきっかけでした。
ある日、担当した妊婦は生命の危険を伴う難産で
帝王切開の末に取り出したのは
双子の赤ちゃんだった。
男の子と女の子。
二人は体の一部が繋がっていて
必要な臓器が一つしかなかった。
医師はすぐに保育器に入れるように支持し
そのことを父親に告げたが、それを知った父親は
二人を見向きもしなかったそうです。
医師は子供たちを保育器から出すようにいった。
それは死を意味する。
そのままで二人は到底生きてはいけない。
それが現実。
でも、この看護士は二人を
そのままにしておくことができなかった。
母親のかわりに抱いてその死を看取ったのです。
語りかけ歌いながら

ふたりは30時間生きた。
男の子が27時間後に息をひきとり、そして女の子も

とても哀しいカミングアウトだった。

彼女は、この話を聞き
この女性こそ娘たちの母親に相応しいと思った。
頻繁に我が家に招待して、娘たちの世話をたのんだ。
子供好きのこの女性はそれをよろこび
娘たちもこの女性のことが大好きです。

エンディングの映像で
彼女がいなくなったこの家族が
ビーチに向かう準備をしている。
彼女のかわりにあの女性が新しい母親になっていた。

最後の課題だった
「みんなでビーチに行く」は結局
はたせなかったんだ。
でも、まあそれでも、いっか。


このエピソードにも批判があった。
リアリティーがないとか出来すぎだとか

そうかな?
それをどうこう言ってもはじまりませんが
映画のリアリティーという以前に
フィクションってなんだろうと考えてしまう。

ノンフィクションとフィクションについて

私たちは真実を求める。事実を求める。
そして現実の前に跪く。
ノンフィクションを信奉しフィクションを嗤う。

この世はすべてフィクションじゃないのか?
そんな風に考えてしまうことがあります。
いったい誰が、真実を事実を示せるのだろうか。
私たちが目の当たりするこの世界は
本当に現実なのだろうか?

ノンフィクションといわれるものが
いったいどこまで真実なのか

映画におけるリアリティーは感情移入のための手法
とわたしは考えます。
映画の役割は現実を暴露することではない。
またそんなことは不可能だ。
映画は生きるための夢や勇気を与えるものだ。
いい映画とは、どれだけそれを与えられたか
というものじゃないかな。

少なくとも、わたしはこの主人公と同じ名前の
「アン」という隣人の女性に
主人公同様に好感をもったし、
ラストの映像で救われた。
アンが天使にみえた。聖母かな?

強さってなんだろうねえ
隣人のアンはある意味へなちょこりんかもしれない
そんなことで挫折して職場から逃げ出すなんて
それから結婚もできない子供ももてない
まったくチェブラーシカ(バッタリ倒れ屋さん)だ。

そうだろうか?

そんな強さが必要だという条件のある世界
それにあわせなければならないという現実。
この現実っていったい誰が作ったのか?

神か?

いいけげんなこと言うなよ。
もっと理論的によく考えてみてくれ。
それを作ったのは私たち人間じゃないか。
人間は自然にストレスを感じない。
人間がストレスを感じるのは人工的なものだ。

現実を言い訳にするな。

人間は器用なものよりも不器用なものに
完成されたものよりも未熟なものに
誠実さを感じるものです。
不器用であるがゆえに貧乏くじを引き損ばかりしてる
そういう人に心惹かれるものだ。
たぶんそこにその人の自然があるからじゃないかな。

一人で生きているんじゃない。
生かされているんだ。