あかんたれブルース

継続はチカラかな

満たされることのどこが悪い?

表現について考えてみる(8)


今週末より来週頭までしばらくお休みします。
それもあって、いい加減「偽善のランドセル」にも終止符を打ちたいので
本日は固め打ちで決着させておきますね。
まず、呪いから、そして表現について。

一応、呪いというふうに表現していますが、
広い意味での社会通念というか風潮というところまで含んでください。

毎年、ボランティアとして夏祭りのお化け屋敷に恐い絵をプレゼンする満。
実は彼、それ以外にも手作りの紙芝居を施設に寄付してる。
いい話でしょ。
それを彼か聞き出すのにわたしはヤキモキしてしまった。
満はそれを話すときに躊躇いがちで、なんか煮え切らない。

なんか女を口説いて服を脱がしているような錯覚に陥り、困惑したのはわたしだ!

満はそのときに何度も呪文を唱えます。

「自己満足」

これは自己満足なんですどね。これは自己満足です。自己満足・・・

そんな予防線を張らなくてもいい!
いいじゃないか、自己満足で。自己満足のどこがいけない。
誰だ、満にこんな気遣いをさせるようにした奴は。

自己が満足する、これのどこが悪い。

いいんだよ。自己満足で。

この件、これでまずお仕舞い。


呪いの続き
言葉狩りというのがありましたね。あの呪い、呪縛はまだ続いている。
発生源は特定できませんが、
市民団体、人権団体、医療機関にアカデミックさんなどなど
それを信奉する私達も元凶でもあるかもね。

自己満足に怯えているのもこのひとつ。

その先にある、裏にあるものを想定してのことでしょうが、
その読み方は浅いよ。
問題は、その自己がいかなるものであるか? なんじゃない。
それは個人的なものだから、
それを一括りにしてはいけない。それなのに、すべて一括りにして
自己満足を恐れてしまう。

フグには毒があるけれど、だからってフグは食べないってわけじゃない。
卵が好きだっていって、そんなにたくさん食べちゃダメじゃん。
そこに工夫とかケースバイケースとか色々あるよ。
それなのに、右といえば右、左といえば左、馬鹿みたいにグルグル回る。
目が回る。左右真っ直ぐ色々自分で考えることを煩わしいとする。
そんなことで、「矛盾」なんて言葉を吐いちゃいけない。
それが稚拙というものだ。

そういうのが、「頑張れ」とか「同情」とかを拡大解釈して封印してしまう。
こういうのが呪いというものだ。

呪いをかける連中もよくないど、それに簡単に引っかかってしまう
私達もよくないと思う。

さて、昨日
そういった発信者に「悪気」や「悪意」がなければ許されるか?
という話を提示しました。

言葉(表現)っていうのは受取手によって様々なので恐い。
思ってもいないことが起きたりします。それは仕方がないとも思う。

で、呪いを解くのはたいがい坊主とか神主とか牧師・神父の聖職者。
もしくはそれとリンクする霊媒師霊能者と相場は決まっています。
そう考えると、
憑き物っていうのは宗教団体のパフォーマンスなんじゃないか?
と考えてしまいます。

研修という名の洗脳もあるしね。あれも企業側の洗脳呪縛でもある。
会社っていうのはひとつの宗教団体です。
中小企業の社長さんとよく飲みますが、それぞれが一種の教祖です。
これはサラリーマン組織の大企業よりも顕著だ。
それが不味いというわけではないのですよ。

そのなかで、埋没する「己」というものを考えてみる。


つづく